この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

非常線の女

ズベ公と与太者のカップルの前に一人のしとやかな女が現れる。小津安二郎監督初期の異色サスペンス。


  製作:1933年
  製作国:日本
  日本公開:1933年
  監督:小津安二郎
  出演:田中絹代、岡譲二(のちの岡譲司)、水久保澄子、
     三井秀夫(注)(のちの三井弘次)、他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    屋根の上の猫
  名前:なし
  色柄:黒


◆罪ある女

 犯罪映画に必ずと言っていいほど登場するのが冷たい女。その存在が犯罪のきっかけになったり、その女そのものが犯行をリードしたり。『深夜の告白』(1944年/監督:ビリー・ワイルダー)のバーバラ・スタンウィック、『三つ数えろ』(1944年/ハワード・ホークス)のいわくありげなローレン・バコール、『俺たちに明日はない』(1967年/監督:アーサー・ペン)のフェイ・ダナウェイなどなど、時には殺人にも眉一つ動かさない冷酷さでストーリーをビシッと締めます。
 が、『非常線の女』の田中絹代は、ふっくらもちもち、こけしのようなかわいらしさ。この映画は23歳のときの、今で言えばアイドル時代の絹代ちゃんです(とは言っても、この時すでに松竹の大スターだったのですが)。その彼女がキリッとコートの襟を立てピストルを構えるクールな姿。小津安二郎監督の初期の傾向の見られるサイレント作品。原作はゼームス・槇。小津監督のペンネームのひとつです。

◆あらすじ

 昭和初期の東京。タイピストの時子(田中絹代)は、勤務先の社長の息子から目をかけられ、個室に二人きりで呼び出されて高価な宝飾品をプレゼントにもらったりしていた。時子は彼に気を持たせていたが、実は襄二(岡譲二)という情人と遊び回っているズベ公だった。襄二は元ボクサーだったが、今は用心棒の裏稼業をする与太者。そんな襄二にボクシング練習生の宏(三井秀夫)が憧れ、学生でありながら彼の仲間に入れてもらって遊びを覚える。
 宏はレコード屋に勤める姉の和子(水久保澄子)と二人暮らしだったが、和子は秀夫が勉強もせず不真面目になったのを心配し、襄二を訪ねて弟を諭してくれるよう頼んだ。襄二は弟思いの和子に心を惹かれる。
 時子は、遊び仲間から和子の存在を知らされ、襄二を取られまいと和子を呼び出して話をつけようとしたが、和子の人柄に引き下がってしまう。
 時子は、襄二に二人でまともな生活を始めようと言うが、襄二は返事をしない。そこに和子が、宏が帰らないので行方を知らないかと訪ねてくる。襄二が和子を冷たく追い返したあと、宏が来て、姉のレコード屋のレジから金を盗んでしまったので金を貸してほしいと言ってきた。襄二は宏を追い払ったが、和子のためにお金を穴埋めしてやると心を決めた。時子が社長の息子を狙うことを提案し、二人はピストルを手に時子の会社に向かう・・・。

◆サイレントニャー

 さて、会社に向かった時子と襄二は、金庫でも開けさせるのかと思いきや、時子が社長の息子にピストルをつきつけ、財布を奪って中のお札を抜き取ります。社長の息子のセクハラを「会社でクビにならないおまじない」として利用していた時子。内心相当我慢していたのでしょう。会社には恨みはないが、こいつには仕返ししてやりたい、とターゲットを社長の息子に絞ったのだと思います。二人で高跳びするための大金までは奪わず、あくまで宏が盗んだレジの金額程度のお金しか取らないところなど、控えめな犯行。
 身許はわかっているので、警官がすぐに襄二と時子のヤサまでやってきます。二人は窓から屋根伝いに逃げ、そこで黒猫と遭遇。けれども、黒猫はほんのちょろっと通行するだけです。効果音のないサイレント作品に、映像でワンポイントの変化とアクセントを与える役。小津監督の作品には猫はあまり出てきませんので貴重な映像です。以前に紹介した『宗方姉妹』(1950年)に猫がたくさん出てきたのは、原作小説を書いた大佛次郎が猫好きだったからなのです。

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆かわいい姐御

 小津安二郎監督のサイレント作品で一番親しまれているのは1932年の『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』でしょう。東京近郊に家を建てたサラリーマン一家の父親が専務にペコペコし、みっともなくおどけているホームムービーを見せられた二人の息子が父に反抗する、笑いと涙の物語。誰もが子どもの頃に経験する親への失望、身過ぎ世過ぎのために馬鹿にならなければやっていけない大人の事情。家族と人生の哀歓をにじませた、小津監督らしい代表作です。
 対して『非常線の女』。始まって驚くのは、そのシュールな映像です。歩く男の影が伸びる舗道、柱時計、タイムレコーダー、帽子掛けにずらりと並ぶ中折れ帽、うち一つがポトッと落ちる・・・、前衛映画が始まったのかと思います。
 無機的なカットがこのようにして続いたあと、ニヤけた社長の息子が登場し、秘書に命じて時子を個室に呼び出させます。秘書もまた心得たり、と言わんばかりにほくそ笑み、一転して生々しい人間臭さが漂ってきます。
 小津監督の映画では『大学は出たけれど』(1929年)『落第はしたけれど』(1930年)など、けなげでしっかりした女性を着物姿で演じていた田中絹代が、ぴったりしたボーダーのセーターにシャツの白い襟をのぞかせ、腰の線もあらわなフレアースカートにハイヒールというスタイルで登場したのも、当時の観客をあっと言わせたのではないでしょうか。おまけに会社ではしおらしくしているものの、一歩会社を出れば「姐御」と呼ばれるズベ公なのですから! 社長の息子以外にも男を手玉に取って、お相手の襄二を食わせているようです。

◆和子の和

 襄二はアメリカのギャングと見まごう姿。時子と遊ぶのはダンスホール。ボクシングジムや町の看板は英語、襄二の部屋には(小津監督の映画でよくあるように)アメリカ映画のポスターや英語の落書き、宏がおぼえた遊びはビリヤード、と、徹底して日本的な風景や器物を排除したこの映画の中で、唯一、宵待草のようにひっそりと可憐な和服姿で現れるのが和子です。
 和子の初登場は、彼女の勤めるレコード屋。遊ぶための小遣いをせびりに宏がやって来ます。ここはおそらく輸入盤のクラシックレコードの専門店で、ビクターのマスコット・犬のニッパーちゃんの像があちこちに飾ってあります。そんな洋風の店内でも、和子は上っ張りの下に着物を着ています。時子との対比は明らかです。和子を演じる水久保澄子の少し寂しさをたたえた上目遣いの大きな目。この人のために何とかしなければ、と思わず一肌脱ぎたくなる憂い顔。
 この頃は『大学は出たけれど』『落第はしたけれど』で描かれたように、学歴があっても不況でなかなか職に就けないご時世で、日中戦争も始まり、学業に身が入らない宏のような学生も多かったのかもしれません。
 襄二は、和子に呼び出されて宏を諭すよう頼まれ、こんな姉を困らせる宏に腹が立つと同時に、和子に言いようのない気持ちを感じます。宏を殴り、和子のレコード屋に行って普段聴きもしないレコードを買って、部屋で一人聴き入るのです。

◆バターと醤油

 思わぬライバルの出現に、和子と話をつけようとした時子がピストルを突きつけるのは短絡的すぎると思いますが、和子に敗北を感じ「あんたが好きになっちゃった」と、和子のほっぺにチュッとして去る、というのも珍しい演出。
 和の美意識の中で日本の市民生活を穏やかに描いた後年の作品からは想像しにくいかもしれませんが、『非常線の女』だけでなく、1930年の『その夜の妻』(主役の八雲恵美子が和服でピストルを構える姿がきまっている!)など、初期の小津監督はアメリカ映画に傾倒していて「バタくさい」と言われていたそうです。
 けれども、時子は、モダンでクールな女になり得ません。自分とは正反対の和子の出現に自信が揺らぎ、自分も和子のような女になるからまともな生活をしようと、襄二を泣き落としにかかるのです。襄二は襄二で、一旦は和子を思い切ろうと彼女に冷たくし、時子の言葉を聞き入れたものの、宏の不始末を知ると一転、義侠心が頭をもたげ、時子とピストル強盗に飛び出します。
 美しい姉のチンピラな弟の不始末から、姉を助けるために金を用立てようと二人組が乗り出す、という話はどこかで・・・と思えば山中貞雄監督の時代劇映画『河内山宗俊』(こうちやまそうしゅん/1936年)。『非常線の女』は、アメリカナイズされた外見をまとっていながら、こうした人情話や、ダメ男に女性が耐える、という新派の芝居のような、日本らしいウエットな心性を中身とした物語なのです。

◆そのとき女は・・・

 時子と襄二はなぜ、顔も隠さず社長の息子を襲ったのか、そして財布の金しか奪わなかったのか。警官に追いつめられながら時子が襄二に語ることから、その理由がわかります。「つかまってやり直そうよ」。初めからそのつもりだった時子。微罪で服役して、数年後に出所したら一緒に出直そうと。それが聞き入れられなかったとき時子は・・・。
 ラストは、アメリカ的なのか、日本的なのか。私にはどちらでもなく、この時代の女性らしさのひとつの類型を描いたものと思えます。相手がどうしようもない男でも、ひたむきに愛を捧げるのが女、という・・・。

 時子の姿には、会社で働く女性が上司のセクハラを利用して自分と家族の生活の糧を得るが、しまいには犯罪にエスカレートし不良と言われて孤立する、という溝口健二監督の『浪華悲歌』(なにわえれじー/1936年)のヒロイン・村井アヤ子の先触れと言える部分も感じます。
 社会の矛盾を描き出す素材として、ヒロインをサディスティックなまでに追い詰めた溝口監督のリアリズムに対し、時子はあくまで小津監督好みの架空の物語世界のヒロインです。どちらがいい、というのでなく、二人の監督の女性観が見えるように思います。襄二の胸にすがる時子・田中絹代の泣き顔には、親が自分の子どもの写真をなるべくかわいく撮ろうとするような、小津監督の慈愛の眼差しを感じずにはいられません。もしかしたら自分の胸を貸したかったのかも・・・。


(注)『非常線の女』では「三井秀夫」とクレジットされていますが、「秀男」が正しいようです。この記事ではクレジットに合わせ「秀夫」と表記しました。

 

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