この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

ヨコハマメリー

  製作:2005年
  製作国:日本
  日本公開:2006年
  監督:中村高寛
  出演:永登元次郎五大路子大野慶人森日出夫、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
  筆者注:映像に刺激的なものはありませんが、性風俗に関する言葉が出てきます。

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    永登元次郎(ながとがんじろう)氏の飼い猫
  名前:不明
  色柄:アメリカンショートヘアのシルバー

かつて横浜にいた一人の異形の娼婦について、周辺の人々の証言でつづるドキュメンタリー映画です。


◆ミナトヨコハマ みなとみらい

 JR横浜駅桜木町駅関内駅石川町駅
 横浜を象徴する地区を結ぶこの4つの駅。どこで降りても観光地としての明るく爽やかな横浜を見ることができるでしょう。けれども、1970年代頃までこの近辺は、表通りをはずれるとちょっと怖い雰囲気が残っていました。日本映画でも、ギャングとか、密輸とか、闇の社会を描くものの舞台として横浜や神戸といった港町がよく選ばれたようです。この『ヨコハマメリー』の中に出てくる「根岸家」という酒場は、黒澤明の『天国と地獄』(1963年)で、犯人が薬物の取引をする酒場のモデルになったということです。
 1980年代に入って、横浜に駐留していた米軍関係者の引き揚げが進み、みなとみらい地区の再開発が始まり、横浜の雰囲気は変わりました。そしてその時の歩みと共に、少し怖かった時代の横浜を象徴する一人の娼婦が老いていきました。

◆ストーリー

 映画が始まると、しわだらけの顔を真っ白に塗った濃い化粧の女性の写真がかわるがわる数枚映し出される。その女性についての街頭インタビューの音声。直接見た人、真偽のほどのわからない話をする人。「“ハマのメリー”と呼ばれる老婆が横浜にいた」の字幕が出る。横浜の繁華街・伊勢佐木町によく現れ、その近辺で誰もが知る有名人だったにもかかわらず、米兵相手の娼婦(パンパン)だったらしいといううわさだけで、本当の彼女を知る人は誰もいない。そのメリーさんが1995年に突然姿を消したことから、彼女の過去と現在を掘り起こすドキュメンタリー映画作りは始まる。

 1950~60年代に、メリーさんは横須賀を経て横浜に来る。気位が高く言葉遣いが上品で、舞台衣装のようなドレスを着て、ほかの娼婦たちと親しくすることはなかった。メリーさんがお客を待っていた界隈の、根岸家という酒場の関係者の談話などにより、メリーさんと当時の横浜の風俗が浮き彫りになっていく。
 1921年生まれというメリーさん。年老いていくとともにビルの片隅をねぐらにするような生活から、住む部屋が欲しいと親しい人に弱音を漏らすようになる。メリーさんと親しかったシャンソン歌手の永登元次郎氏が役所に掛け合うが、住所不定のメリーさんは保護が受けられない。そんなメリーさんが故郷に帰れるよう手を貸してくれたのは、メリーさんが服を着替える場所を提供してくれていたクリーニング屋の奥さんだった。1995年12月にメリーさんは横浜を去る。メリーさんがいた横浜の町も変わっていく。

 故郷近くの老人ホームに身を落ち着けたメリーさんから、永登元次郎氏のもとに手紙が届く。元次郎氏はメリーさんに会おうと旅立った・・・。

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◆どうするんだろう、あんたは

 人間が生き、老いていくことについて、一人の娼婦メリーさんを通じて描いたこのドキュメンタリーは、もう一人の登場人物・永登元次郎氏によって同じテーマを複線化しています。元次郎氏は、映画の撮影中から末期のがんを患っていたのです。映画の公開前の2004年3月に元次郎氏はこの世を去ります。
 元次郎氏は経営していたバー「シャノアール」の隣の自宅兼楽屋で、1匹の猫を飼っていました。名前はわかりませんが、映画の中で3回登場し、重い空気を和ませるような、それでいて少ししんみりするような雰囲気をかもし出しています。
2回目の登場のとき、元次郎氏は猫を抱き上げて言います。
「毛が抜けるねえ。カミソリで全部丸坊主にしてやりたいよ」
「うう~ん、どうするんだろう。元次郎死んだら、あんたは」
末期がんを患う元次郎氏の愛猫を思う哀切な問いかけ。ぐっと胸を突かれる思いがします。
 3回目の登場のときは、元次郎氏が入院中のときか、メリーさんに会いに行ったときか、猫は1匹で部屋の中でしっぽをパタパタさせて寝そべっています。カメラがアップになり、ごろりと転がる猫。元次郎氏の不在の部屋。さきほどの元次郎氏の問いかけが現実になった場面を思わせ、何も知らぬげに無邪気に転がる猫のしぐさに心が揺さぶられます。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

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◆私の会ったメリーさん

 ティファニーで朝食を』のときに少し触れましたが、わたしは子どもの頃横浜に住んでいて、実際に何度かメリーさんを見かけたことがあります。その頃の横浜では、彼女のことをメリーさんと呼ぶ人はなかったと思います。私や友人たちは「白いおばさん」とか「白い人」と呼んでいましたが、ここでは彼女をメリーさんと呼ぶことにしましょう。
 映画に出てくるメリーさんの写真は、映画の中でインタビューを受けている写真家・森日出夫氏が1993年頃から1年かけて撮ったもので、『PASS ハマのメリーさん』という写真集におさめられています。メリーさんが72、3歳の頃の姿になりますが、わたしはもっと早く横浜を離れてしまったので、最後にメリーさんを見たのは1970年代後半ごろだったと思います。まだお婆さんではなく、姿勢がよくてマダムという感じでしたが、白いお化粧は写真の通りでした。
 メリーさんは強烈な印象を与える姿ですが、周りとかかわりを持とうとしているように見えませんでした。目のお化粧が濃かったので、こっちを見ているのか見ていないのかよくわかりません。常に気配を殺していて、気が付くと街角にひっそりとたたずんで周囲を眺めていたり、すぐ後ろを歩いていたりするのです。メリーさんがそこにいる、と気が付いたときは、日常にエアポケットが開いたような気持ちになりました。

◆戦争の記憶

 映画のテーマ曲になっている「伊勢佐木町ブルース」は、1968年に青江三奈が歌って爆発的にヒットしました。イントロに続いて、アー、アー、というハスキーな色っぽいため息がテンポよく加わり、終盤のスキャットで昇天? 当時の横浜で一番の繁華街・伊勢佐木町の、昼の買い物客で賑わった表通りに代わり、灯ともし頃とともに裏通りが妖しく輝きだす光景が目に浮かびます。
 度重なる空襲で壊滅した横浜。戦後、本牧や根岸には米軍関係者が住む住宅や施設が広い芝生の中にぽつんぽつんと建っていて、金網一つ隔てたそこはアメリカでした。日本人が住んでいた場所などが占領によって接収されたのです。中で遊ぶとMP(米軍の憲兵)に追い出されました。私の周りの大人たちの間では、横須賀などの基地周辺は階級が下位の兵隊が多く、横浜中心部に住んでいるのは将校クラス以上の軍人が多いという話で、プライドが高く将校をお客に取っていたというメリーさんが、横須賀から横浜に移ったというのは、うなずける話です。
 けれども、横浜に駐留していた米軍関係者の引き揚げと、米兵相手の娼婦だったメリーさんが年老いていく時期が重なります。戦争の記憶が横浜から消えていくとともに、メリーさんも横浜から姿を消したのです。

◆メリーさんをめぐる人々

 この映画の特徴的なところは、特定の個人についてのドキュメンタリーにもかかわらず、当の本人がいなくなったところから始まるところです。私のように実際にメリーさんを知っている者ならば、伊勢佐木町の街角に立っていた白塗りの娼婦と言えば、すぐあの人だとわかりますが、全くメリーさんのことを知らない人は、写真と周辺の人々へのインタビューを通じて彼女のことを想像するしかありません。そして、最後まで本人にインタビューすることはない。つまり、本人の証言によって、人々の噂とか記憶を修正し、実像を描き出すことがないのです。言わば、伝説化したメリーさんを伝説のまま撮り終えているのです。

 インタビューされた人々の中で、最も重要なのは永登元次郎氏です。彼は、1991年に自分のリサイタルのポスターを眺めていたメリーさんに声をかけて招待券をあげ、来てもらったことをきっかけにメリーさんと親しくなります。男娼をしていたという彼の過去が、メリーさんに声をかけるという、当時の横浜にいた者にとっては思い切った行動につながったのです。そして、メリーさんが「あたしはパンパンをやってたからね」と何かの話の中で言ったときに、元次郎氏は、少年時代に自分の母親が父と別れた後でほかの男性と親しくなったことに傷つき、母を「パンパン!」と罵ったことを思い出します。メリーさんの言葉を聞いて、お母さんになんてことを言ってしまったんだろうと悔やみ、メリーさんが自分のお母さんだったらと、メリーさんの生活を金銭面で支えていくことになるのです。

◆メリーさんのいた町

 女優の五大路子は、メリーさんから題材をとった「横浜ローザ」という一人芝居を演じました。横浜の公演で、彼女が舞台から客席に下りて通路を歩いて退場するとき、観客が彼女の腕をさわって、「ローザ」ではなく「メリー!」「メリー!」と声がかかった、それは演じた自分にでなく、街角に立っていたメリーさんに、よく生きたね、と言いたかったのではないかと語ります。
 元次郎氏がメリーさんを招待したリサイタルで、メリーさんがアンコールの前に舞台の元次郎氏に客席からプレゼントを渡すと、大きな拍手が起こるというビデオ映像は印象的です。横浜の人は、メリーさんを戦後の混乱から這い上がった横浜の歴史の象徴的な存在として見ていたのではないでしょうか。写真家の森日出夫氏が語ったように、メリーさんは伊勢佐木町を表す風景そのものでもあったのでしょう。
 けれども、老いて町の人々にそれとなく見守られる一方、メリーさんが次第に追いやられていった事実が彼女にかかわった人たちの証言から浮かび上がります。

◆白塗りの化粧

 舞踏家の大野慶人は、メリーさんのことを「きんきらさん」と呼んでいたと語ります。彼の父親は高名な舞踏家の大野一雄。「わたしのお母さん」という代表作で女装をして踊りますが、つばの広い帽子をかぶり、黒い着物を羽織った姿は、私の中のメリーさんの記憶を呼び覚まします。舞踏では、顔や体を真っ白に塗ります。私の手元にある公演の録画は1998年の91歳のときの舞です。老いたメリーさんが踊っているかのようです。
 作家の山崎洋子氏がインタビューで語ったように、メリーさんのお化粧は仮面だったのではないでしょうか。それは無意識だったのかもしれませんが、顔を真っ白に塗り、どぎつい化粧をし、ドレスをまとい、メリーの姿に変身して、本来の自分と切り離すことによって、パンパン稼業ですり減っていく素の自分自身を守ることができたのではないかと思います。

 結末は映画をぜひご覧になってください。メリーさんと元次郎氏が心温まる時間を持てた、ということだけをお伝えしておきます。

 メリーさんは、元次郎氏に遅れて2005年1月に83歳で他界します。手違いで、中村監督がそれを知ったのはメリーさんが亡くなってから1年ほどたった頃。この映画の2006年4月の公開の準備をしている最中に、知らせが届いたそうです。

 『ヨコハマメリー』は自主上映会の開催を受け付けています。詳しくはオフィシャルサイトをご参照ください。

 

参考:『ヨコハマメリー 白塗りの老娼はどこへ行ったのか』
    中村高寛河出文庫/2020年