この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

第三の男

猫が出るのは前半から中盤の数回。うち、一度はストーリーが思わぬ方向に転換するきっかけを担っているのですが、そこでは不思議なことが・・・?

 

  製作:1949年
  製作国:イギリス
  日本公開:1952年
  監督:キャロル・リード
  出演:ジョゼフ・コットンアリダ・ヴァリオーソン・ウェルズ 他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)


  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    女性主人公アンナの飼い猫
  名前:なし
  色柄:ミケ・キジ白(モノクロ映画のため推定)

◆「名作」なのに面白くない?

 今のように映画や動画がいつでもどこでも楽しめるようになるはるか以前の、家庭用ビデオデッキが普及する1980年代前まで、旧作映画を楽しむには、再上映館を除けばテレビの名画劇場で放映されるのを待つしかありませんでした。放送時間枠におさめるために本来の上映時間が短くされたりしていたのですが、大半の人はそんなことはお構いなしで、テレビ版名画を見て喜んでいました。「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」のフレーズで有名な淀川長治さんなどの解説者も、また、解説者が選ぶ不朽の名作のハイライトシーンを集めた特集番組も人気でした。そういう特番で必ず登場するのが『第三の男』。
 監督のキャロル・リードや『第三の男』という題名を知らなくても、アントン・カラスのツィターの演奏による軽快なテーマ音楽(ヱビスビールのCMにも使われている)や、クールな美女アリダ・ヴァリが脇目も振らず並木道をまっすぐ歩き去るラストシーンを耳や目にしたことがある人は多いと思います。それほど有名な映画にもかかわらず、「面白かった!」と手放しでこの映画をほめる人に今のところお目にかかったことがありません。かく申す筆者も初めて見たときは??? ストーリーがよくわからずじまい。けれども、わからなかったところを復習するようなつもりで二度、三度と見ていくと、さすが! と思えてきます。一度目は音楽とラストシーンを覚えているだけでもいいのです。最低二回は見てください。

◆あらすじ

 映画の舞台は第二次世界大戦後まもないウィーン。町は爆撃で破壊され、闇商売が横行している。三文小説家のホリー・マーチンス(ジョゼフ・コットン)は、子供の頃からの親友ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)に仕事を紹介してもらいにアメリカからはるばるやってくる。だがハリーは車にはねられ、たったいま葬式が済んだところ。警官によればハリーはお尋ね者の密売屋だったという。ハリーの死と犯罪に手を染めていたことが信じられないホリーは、ハリーの恋人のアンナ(アリダ・ヴァリ)に近づいて真相を探ろうとする。ハリーは生きていた。ハリーは自分が死んだように見せかけて仲間の一人を殺し、警察から逃れようとしていたのだった。警察に協力してハリーをおびき出すおとりになるホリー。アンナは、ハリーを警察に売ったと激しくホリーを責める。ホリーはアンナのことを好きになっていた。そこにハリーが現れ、ホリーは警察と共に彼を追う。

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◆ハリーにしかなつかない猫

 アンナがアパートで飼っている猫は顔や右肩やおなかの白いミケ。ホリーが彼女の部屋に来て猫をじゃらそうとしますが、猫は窓から表に出て行ってしまいます。「ハリー以外にはなつかないの」とアンナ。
 おんもに飛び出した猫は、石畳の歩道をトコトコと壁づたいに歩き、暗がりにたたずんでいる男の靴の上に乗ってその顔を見上げます。ハリー以外にはなつかないはずの猫がこんなになれている男とは? 死んだはずのハリーでは? と匂わせる重要なシーン。けれども、どういうわけかアンナの部屋にいた猫と、石畳を歩いて行く猫と、男の靴に乗っかる猫が別々の猫なのです。アンナの部屋にいたミケと歩いて行く猫はよく似ていますが、顔の柄が違います。靴に乗るのはキジシロ。ミケ2匹はなんだか毛がぼそぼそで眠そうな目で、そのへんのノラちゃんという感じなのですが、キジシロは目がぱっちりの美形。もちろん設定上は同じ猫。キジシロが男の顔を見上げたあとで、猫は再びミケに戻り、男の靴ひもをくわえてじゃれつきます。これはあら不思議、猫イリュージョン、ではなくて、猫が靴ひもにじゃれつくだけではこの靴の主がハリーでは、と思わせるインパクトに欠けると、猫の表情のカットをつなげたのだと思います。普通は少なくともどちらかのミケを別の日に撮りなおしてフィルムをつなげるはずなのに、ミケのスケジュールが合わなかったか、監督の意図に沿った演技力(目力?)を発揮してくれなかったかで、精いっぱい似て見えた代役のキジシロのフィルムをやむなくあとから挿入したのでしょう。今の映画作りでは考えられないおおらかな時代だったんですね。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

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◆男と女と犯罪と

 地下下水道での7分以上にわたる追跡シーンが最高の見せ場。
 はじめは親友の死の真相を知りたくてアンナに近づいたホリーが次第にアンナに惹かれ、恋心を抱く純情さ。自分のためなら世間ばかりか恋人のアンナも顧みないハリーの冷酷。それに憤り、アンナを助けるために警察に協力したホリーの正義感と真心に気づかないまま、ハリーを裏切ったと彼の純愛をきっぱりと拒絶するアンナ。
 ストーリーは1940年代から50年代に一大ジャンルをなした犯罪映画の仕立て。なのに、それを意図的に外したとぼけたユーモアがそこかしこにちりばめられ、暗く陰惨なサスペンスを脱した独特の味があります。この緊張感をずらしたところがこの映画の魅力とも面白くなさの一因とも言えるのですが。

◆モノクロの美とユーモア

 この映画では、ウィーンの街並み・橋・大観覧車・地下の下水道など人工の構造物の幾何学的な美、ラストの並木道のように直線的でシャープな構図、光と影のコントラストに目を奪われます。色彩がないからこそこれが引き立ちます。デジタルネイティブ世代にあたる若い人には、昔のモノクロフィルム映画は見たくないと言う人が多いようですが(こわい、気味が悪い、という声を聞いたことがあります)、『第三の男』は一度は、いえ、二度は見ておくべきです。
 そして、力の抜けたユーモアがいい。子供が見覚えのあるホリーの顔を見て、「この人が殺した」と叫んで、大人たちがドイツ語で何やら口々に追いかけるところとか、風船売りの老人が張り込み中の警官に風船を買ってくれとつきまとうとか、サスペンスタッチに描いて緊迫感を盛り上げれば効果的な場面なのに、わざと苦笑を誘うように持って行きます。どっと笑うようなギャグでなく、じわじわと笑いに落とし込んでいくような運びが実にうまいと思いませんか。
 キャロル・リード監督のほかのモノクロ作品で私のおすすめは『邪魔者は殺(け)せ』(1947年)。サスペンス性はこちらの方が上ですが、それだけに見る方もエネルギーがいる映画です。

◆アンナの女心

 ラストの、ハリーが逃げ切れなかったことを恨むアンナが、枯葉の舞う並木道で、彼女が来るのを待ち構えるホリーを完璧に無視して立ち去る場面。わが師匠・映画評論家白井佳夫氏(東京12チャンネル(現テレビ東京)の「日本映画名作劇場」で、1976年から3年間、にこりともせずに解説者を務めたことがある)は、早稲田大学映画研究会時代、メンバーに対し、「アンナはなぜホリーに見向きもせずに通り過ぎてしまったのか」について次の二つの解釈を提示し、論争を仕掛けたそうです(1)。


「①あの悪魔的な魅力を持った男、ハリー・ライムに、友人として心服していた平凡な、三文小説家のホリー。(ハリーを裏切った)そんなあなたの方など、私は、一瞥も与えずに、去っていくのよ。あなたが、私のことを愛しているらしいことを、知っていればこそなお」
「②あの悪魔的な男を愛してしまった私のような女は、私を愛してくれている平凡人のあなたの方を、じっと見詰めて、その愛を受け入れる資格は、ないと思う。それは結局、あなたを不幸にするだけなのだから。だから私は、あえて、あなたの方を見向きもせずに、去っていくのよ」
(注:ネタバレ防止のため、一部略)

◆第三の解釈

 さて、あなたはどちらを選ぶでしょうか。
 多くの人が①だと思います。彼女はハリーを裏切ったホリーが許せない。しかもその男が自分を愛している。そのこと自体我慢できない。気の強いアンナは、ホリーに最も冷たい「無視」という形で仕返ししたのです。
 ②のような解釈は、師匠が学生だった1950年代頃まではポピュラーだったのだと思います。太平洋戦争前からの価値観、新派(明治末期から昭和前半頃に隆盛だった日本の演劇の一派で、悲劇的な運命を耐え忍ぶヒロインが人気)の芝居や「母もの映画(1940~50年代に流行した、母性愛を至上のものとして描いたメロドラマ調の映画)」などで、自己犠牲や忍従に甘んじる女性像が美化され量産された時代だったからです。


 師匠は、“さて、そうした二つの解釈に対して、実は私はこう考えるのである。映画『第三の男』で、キャロル・リード監督は、結局そのどちらかを〈正しい〉とするような、一方的な古い〈割切り・解釈〉で作品を作ってはいないのである。キャロル・リード監督は女優アンナが、三文小説家ホリーを、〈憎んで〉もいたし、同時に〈愛して〉もいたのだろうと規定しているのだ、とでもいったらいいのか。順番を逆にして、彼女は悪魔的な愛人ハリー・ライムを〈強烈に愛して〉もいたし、同時に〈強烈に憎悪して〉もいたのである。そんな〈両義的な一瞬を切り取って、フィルムの映像として永遠化するようなこと〉こそが〈現代的な黒白映画の映像表現の最先端を極めたやりかた〉ではないのか、とキャロル・リードは心の底で、秘かに考えていたに、違いないのである。”と言っています(2)。


 犯罪者を愛する女性は少なくありません。アンナはパスポートの偽造を頼んだりと、ハリーが何らかの悪事を働いていたことは知っていたのでしょう。彼女はハリーと共依存の心理関係にあり、特殊な男に愛されることで自己充実感を得ていたのではないかと思います。「ハリーは私の一部なの」と言い、「正直者で分別があり無害なホリー」と、普通の人・ホリーを見下しています。
 グレアム・グリーンの原作小説のラストでは、アンナはホリーの腕に自分の腕を通し、二人で歩いて行ったそうです。こちらは今の若い世代の共感を得やすいと思いますが、どうでしょうか。

 

注 (1)(2)
白井佳夫「中山信一郎/オーソン・ウェルズキャロル・リード/そして『失われた時を求めて』」
『泣き笑い 映画とジャズの極道日記』中山信一郎 2020年 所収