この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

ミツバチのささやき

「わたしはアナよ」幼い女の子が空想に向かって呼びかける。少女が呼び寄せたものは・・・。


  製作:1973年
  製作国:スペイン
  日本公開:1985年
  監督:ビクトル・エリセ
  出演:アナ・トレント、イサベル・テリェリア、フェルナンド・フェルナン・ゴメス、
     テレサ・ギンペラ 他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    主人公たちの家のペット
  名前:ミシヘル
  色柄:黒
  その他の猫:映画『フランケンシュタイン』に登場する猫


◆それぞれのささやき

 この映画が公開されたとき、アート系の作品を数多く日本に紹介したミニシアター、今はなきシネ・ヴィヴァン・六本木に見に行きました。「アナ・トレントみたいにかわいい子、見たことない」と映画は大評判でした。インターネットが普及していなかった当時、こうした映画の情報収集は映画館で売っているパンフレットが最強のツール。たしか自分はパンフレットを買ったはず、と探してみたら、ありました! 驚いたことにツヤ消しアート紙でB5判、カラーの表紙・裏表紙も含め広告なしで52ページ、計ってみたら157グラム。さらに驚くのはその執筆陣。巻頭はビクトル・エリセ監督への四方田犬彦のインタビュー記事。続いて武満徹蓮實重彦の対談。映画評論家では淀川長治川本三郎、さらに文化人類学者の山口昌男に漫画家の萩尾望都、詩人、写真家、等々、芸術・文化系のビッグ・ネームがずらり。
 自分の書くものに影響するので、書く前にこれらの文章は読まないことにしています。アート・娯楽に限らず、自分がその映画に接したときの正直な反応を表すこと、何か知っていることがあればお話しして、皆様にもその映画と、そこにちょこんといる猫に関心を持っていただくことを心がけています。

◆あらすじ

 1940年頃、内戦後のスペインのカスティーリャ地方・オユエロス村。1台の幌付きトラックがやってきて、村の公民館に移動映画館を設営した。上演作品は1931年の『フランケンシュタイン』。アナ(アナ・トレント)と姉のイサベル(イサベル・テリェリア)も、夢中で画面を見つめている。
 二人が映画を見ている間、母(テレサ・ギンペラ)は、手紙をしたため、駅まで自転車を走らせて投函した。養蜂業者の父(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)はその日の仕事を終え、映画の音声が漏れる公民館の傍らを通って自宅に帰った。住み込みのお手伝いさんがいる、裕福な家庭である。
 夜、子ども部屋のベッドで、アナは姉のイサベルに映画についての質問の答えをせがむ。イサベルは、映画の怪物は精霊で、村はずれに住んでいる、目をつぶって「わたしはアナよ」と呼びかければいつでもお話しできる、と作り話をする。
 二人は小学校の帰りに村はずれの「精霊がいる」廃屋に行き、アナが大きな足跡を見つける。別の日にアナが一人でそこに行くと、足を負傷した脱走兵が隠れていた。アナは父のコートを持ち出して彼の世話を焼くが、彼はある夜銃殺され、そこで父の懐中時計が見つかったことから、父はアナが来ていたのではないかと疑う。脱走兵が死んだと知らずにアナが廃屋にやってくると、アナの関わりを確かめるために父が後を追って来る。アナは叱られると思って逃げてしまう。村の人々が探す中、日はとっぷりと暮れていく。
 夜、林の中の沼のほとりで、アナは背後に誰かの気配がするのに気づく・・・。

◆猫の敵

 この映画では多くの場面で生と死がシンボリックな形で登場します。そして生と死の中間に子どもが置かれます。大人にとって子どもは、死にやすく守ってやらねばならない存在ですが、子どももそれを知っていて、大人が自分をそれから守ろうとする「死」というものを知りたいという衝動を秘めているようです。アナより2つ3つほど年上に見える姉の方は、死をアナより抽象的に考えることができるようになっていて、様々な死のシミュレーションを試みます。
 映画の中で、猫は中盤2度登場します。1度目は野外から家の中で母がピアノを弾く場面への転換のとき。2度目はイサベルが昼寝をしている子ども部屋の場面です。イサベルは、ベッドの下に猫がもぐっていったのに気づいて「ミシヘル」と呼んで抱き上げます。初めは撫でたり頬ずりしたりしていたのに、ミシヘルがおとなしいとわかると、首の周りに回した手に力を込めて締め始めるのです。ミシヘルは怒ってイサベルの手をひっかいて逃げ出しますが、イサベルは引っかかれた傷の血を唇に塗り、紅を差した自分の顔を鏡で誇らしげに見つめます。イサベルはそのあとで、アナの目に触れるように自分が事故で死んだふりをしてみせ、おどかしてみたりするのです。
 一見不可解な行動ですが、子どもはこういう形で死を疑似体験し、自分で命をコントロールできるという自信を得て成長していくのではないでしょうか(実験台にされた猫はいい迷惑ですが・・・)。
 まだ幼いアナは、姉のように死を対象化することができません。姉の事故死ごっこにだまされた後で、姉とその友だちが焚火の火を跳び越える、死と再生の体験と言うべき遊びに加わる身体能力もまだありません。アナの中で、映画や姉の話から組み立てた空想の世界だけが、真実かどうかを確かめるすべのないままふくらんでいきます。

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆怪物の存在

 前々回にご紹介した映画『フランケンシュタイン』(1931年/監督:ジェームズ・ホエール)が、この映画のモチーフとなっています。父が脱走兵の身元確認をするカット、村人たちが灯りを手にアナを捜しに行くカットなどが『フランケンシュタイン』を見た方なら記憶に結びつくでしょう。
 アナとイサベルをひきつけたのは、湖のほとりで少女マリア(注)と怪物が遊ぶシーン。実際の『フランケンシュタイン』の映像が流れ、マリアの父親が湖に投げ込まれたマリアの遺体を抱いて村にやってくる場面も、公民館の汚れたスクリーンに映ります。アナは、姉のイサベルに「なぜ怪物はあの子を殺したの」「なぜ怪物も殺されたの」と聞くのですが、うまく説明できないイサベルは「映画の中のことはみんなウソだから、誰も死んでいない。わたしは怪物が生きているのを見た」などとごまかすのです。「どこで見たの」というアナの問いに、イサベルの創作上の「怪物=目に見えない精霊の隠れ家」のある村はずれへ二人で確かめに行くことになります。
 荒涼とした平原の真ん中にぽつんと建つ朽ち果てた廃屋。そばには打ち棄てられたような井戸。そこに向かって、学校帰りの幼い姉妹が鞄を抱えて、お人形さん、豆粒、さらにゴマ粒のようにどんどん小さく遠ざかっていきます。乾ききったその大地に雨滴のように吸い込まれ消えてしまいそうな二人。廃屋の周りで大きな靴跡を見つけ、アナの心の中で怪物の存在は現実になります。そのとき自分が『フランケンシュタイン』のマリアの位置に立ったという自覚は、アナの中にはありません。

◆父と母

 姉妹の父と母は、会話を交わすことはありません。父はこの妻の夫・姉妹の父親としては少し年を取っているように見えます。母の手紙は誰に宛てて書いたかわからず、ラブレターのようであり、そうでないようでもあり、内戦によって長く消息のつかめない人への再会の希望を自分のために吐き出しているようです。母がその手紙を駅に到着した貨車のポストに投げ入れたあと、客車に座って窓の外を見ている兵士と目が合います。お互いの心中を探り合うような視線です。母は内戦の前、夫以外の男性を愛していて、その人が戦闘に加わって消息がつかめなくなってしまったのかもしれない、手紙はその人に宛てたのか? 汽車の兵士にその人を思い浮かべたのでは、と思わせます。
 父の方は、仕事のあと書斎にこもってミツバチの生態についての文章を書き始め、机に突っ伏して眠ってしまいます。明るくなってから母の寝ている寝室に入っていくような気配がありますが、傍らに眠ることはありません。目を覚ましかけた母も声をかけるでもなく目を閉じます。よそよそしい夫婦仲。
 父の書く文章は、ミツバチが子孫を養育するために自らを犠牲に働き続けること。父は、妻の心が自分にないことを知りながら、二人の娘の養育のために自分の人生を捧げているのだということを、ミツバチを通して物語っているようです。その家の窓には蜂の巣のような六角形の装飾が施されています。

◆無垢な少女

 「怪物の隠れ家」に偶然逃げ込んだ脱走兵にリンゴを差し出すアナは『フランケンシュタイン』で怪物にお花を差し出したマリアそのものです。疑いや恐れを知らない純真無垢な少女の優しさ。痛々しいほどつぶら黒い瞳。脱走兵は直接的には怪物ではありませんでしたが、この脱走兵との出会いが、アナを危機に導きます。叱られると思って逃げ込んだ林の中で出会った怪物と見える誰か。見つめるアナ・トレントの唇が、本当にわなわなと震えています。そして目を閉じる――。
 初めてこの映画を見たとき、私はアナが恐怖のあまり気を失ったと思いました。あらためて見ると、アナは「目を閉じて『わたしはアナよ』と呼びかければお友達になれる」というイサベラから聞いた話を実行しようとしたように思えるのです。

◆I was born

 線路に耳をつけて汽車の接近を知る遊び、父の部屋の絵画、毒キノコ・・・、死の表象があふれるこの映画は「よみがえり」で終わります。母は投函するばかりになっていた手紙を燃やし、書斎で眠る夫の肩に上着を着せかけます。
 人間の手で醜く生まれた『フランケンシュタイン』の怪物も、普通に生まれた人間も、生まれさせられたことに違いはありません。その親も、またその親も・・・。新たな生命にバトンを渡す永遠の営みの中で、人間だけはある時から、生まれさせられた自分がいつかは消えることに気づいて、生きていくことになるのです。昨日までの自分と今日の自分との、死と生まれ変わりを繰り返しながら。


(注) ここではオリジナル通り「マリア」と書きましたが、『ミツバチのささやき』の字幕とパンフレットのシナリオ採録によると、少女の名は「メアリー」となっています。ただし、アナたちが見ていたスペイン語吹替えの『フランケンシュタイン』の映画では、少女は「マリア」と名乗っているように聞こえます。この記事では「マリア」と表記します。

 

eigatoneko.com

◆パソコンをご利用の読者の方へ◆
過去の記事の検索には、ブログの先頭画面上部の黒いフチの左の方、「この映画、猫が出てます▼」をクリック、
「記事一覧」をクリックしていただくのが便利です。

 

怪猫有馬御殿

殺された側室と女中の生首が有馬屋敷に飛ぶ! 大映戦後化け猫映画の第二弾!

  製作:1953年
  製作国:日本
  日本公開:1953年
  監督:荒井良
  出演:入江たか子、阿井三千子、北村礼子、金剛麗子、坂東好太郎、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    おたきの方の愛猫
  名前:玉
  色柄:三毛


◆お正月も怪談

 ちょうど一年前、『怪談佐賀屋敷』(1953年/監督:荒井良平)の記事でお盆と怪談映画の関係をお話ししましたが、『怪猫有馬御殿』が公開されたのは、『怪談佐賀屋敷』から4ヶ月もたたない1953年の暮れ。お正月映画として登場しました。
 当時の朝日新聞の広告によれば(注1)、その暮れから春にかけて大映が11本の映画を順次公開予定で、そのラインナップが発表されています。一つの映画会社が11本の映画を並行して製作・公開しているとは! 今では考えられませんが、当時はプログラムピクチャーの時代。映画会社が年間の製作本数を決め、その数を埋めるようにどんどん作って、直営・契約映画館で二本立てで公開していくというのが普通だったので、これくらいのペースはあり得たかもしれません。ちなみに『怪猫有馬御殿』と併映された二本立て作品は若尾文子主演の『十代の誘惑』(1953年/監督:久松静児)。う~ん、こっちも見てみたい!

◆あらすじ

 有馬家の古参の側室おこよの方(北村礼子)は、殿の寵愛が新参の側室おたきの方(入江たか子)に傾いているのを腹に据えかねていた。そんな折におたきの方が可愛がっている猫の玉がおこよの方のお膳の魚を盗み、おこよは怒っておたきの方を呼びつけ、玉を殺すかそれが嫌なら裸で踊れとおたきをいじめる。有馬大学(坂東好太郎)のとりなしで、その場はなんとかおさまる。
 別の日、おこよの方は奥女中たちの武術試合で、おこよの方の老女中で武術に秀でる岩波(金剛麗子)と手合わせするようおたきに強要する。おたきは町家の出で武術の心得がなく降参するが、岩波は平伏しているおたきを何度も打つ。おこよはさらにおたきが自分を丑の刻参りで呪ったと濡れ衣を着せ、自害に見せかけ岩波が刺し殺してしまう。そこへどこからともなく玉が現れ、おたきの血をピチャピチャとなめる。
 やがて、おこよの方の女中部屋におたきの方の亡霊が現れ、女中たちが次々と殺害され、騒ぎを聞きつけた有馬家の家臣たちがおたきの方を追い詰める。おたきの方の亡霊と思われたのは、おたきの恨みをはらすために化け猫になった玉だった…。

◆玉ちゃんmyラブ

 『怪談佐賀屋敷』の主役猫「こま」ちゃんが私の一番のお気に入り、と一年前にお話ししましたが、今回の「玉」ちゃんは「こま」ちゃんと同じ猫です。玉ちゃんは、おこよの方のメインのおかずの鯛を盗むといういけないことをやってのけ、殺せと言われたのを不憫に思ったおたきの方に、情けある人に拾われておくれ、と屋敷の外に捨てられるのです。そんな泣かせる場面で、抱かれるのを嫌がってカメラもマイクも全く気にせず「ギャ~」と鳴いてもがいてみせる素人臭さもまた健在。かわいいわ、まったく。
 どこかしら急ごしらえを感じさせるこの映画、玉ちゃんが怖がらせに出てくる場面も少なめで少々物足りないのですが、二本目も声がかかったということは初演の演技力を買われてのことと、私は信じています。

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆複雑怪奇物語

 物語の舞台は、久留米藩主有馬家の江戸上屋敷。今の東京都港区三田にあったということで、『和猫のあしあと 東京の猫伝説をたどる』(岩﨑永治著/2020年/緑書房)によれば、騒動の発端となった猫の猫塚の台座とその上の猫石が今も存在しているそうですが、この化け猫話そのものが創作らしく、猫塚もいつどのような経緯でできたのかは不明だそうです(注2)。
 『怪談佐賀屋敷』の鍋島、愛知の岡崎と合わせ日本三大化け猫騒動と言われる有馬猫騒動。『怪猫有馬御殿』のDVDジャケットには人形浄瑠璃の「鏡山」を題材としていると書いてあります(注3)。この浄瑠璃『加々見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』(1782年初演)の一部が『鏡山旧錦絵』(通称「鏡山」)として歌舞伎の演目になり、また、1880年河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)作の歌舞伎『有松染相撲浴衣(ありまつぞめすもうのゆかた)』が(有松にありまを引っ掛け)、有馬の化け猫騒動を題材としているということ。お局に中老がいじめられて自害し、中老の言いつけで出かけていた女中が帰ってから亡きがらを見つけ仇を討つ、というストーリーは歌舞伎で「鏡山物」と呼ばれているそうです。有馬の化け猫騒動の話は色々な話がミックスして脚色が施され、その都度形を変えながら今日に至っています。したがって『怪猫有馬御殿』もその一つということで、この映画のストーリーが決定版というわけではありません。
 2009年の大阪松竹座の歌舞伎『怪異 有馬猫』では、古参の側室は姿を見せず、もっぱら岩波が悪役として活躍していました。この版では、中老づきの女中(2022年6月に亡くなった坂東竹三郎)に中老が可愛がっていた猫が取り憑いて復讐を繰り広げます。化け猫は生きた鯉を舞台上で巧みになぶっていましたが、動物愛護の点から、もうこの演出はできないのでは・・・。猫の方はおもちゃ屋さんで売っているようなぬいぐるみでした。

◆嫉妬の炎

 先ほども言いましたが、この映画は前作の『怪談佐賀屋敷』に比べて小粒で急ごしらえの感が否めません。49分という短い尺ですし『怪談佐賀屋敷』の好評を受けてお正月に間に合わせようと急いで製作されたのではないかと思います。
 『怪談佐賀屋敷』では中心になるのが次席家老の磯早豊前による権力闘争ですが、『怪猫有馬御殿』は大奥でもおなじみ、女の嫉妬をめぐる物語。ここは例によってその陰険ないじめが見どころとなります。
 新参のおたきの方は、八百屋の出。おこよの方の側はおたきの家柄を格好のいじめのネタにして、玉がおかずの鯛を盗むと「大根や人参ばかり食べさせているから魚が珍しいのじゃ」とグサリ。顔からして憎々しいのは老女岩波。おこよの方がおたきを呪って丑の刻参りをしたのに、おたきがおこよを呪っていると言いがかりをつけ、おたきの女中のお仲(阿井三千子)が留守の間に、ほかの女中たちと共におたきの部屋に押し入って、おたきを刺し殺してしまうのです。

◆見せ場をアップデート

 殺されたおたきの血をなめて玉が化け猫に変わり、おこよの女中たちを歌舞伎の演出よろしく、猫まねきや猫囃子でアクロバティックに翻弄するという展開は『怪談佐賀屋敷』とほぼ同じ。見せ場もこれでは二番煎じ、と導入されたのは、より映画らしく腰元とおたきの生首が宙を飛ぶ特撮。今の私たちには幼稚でグロに見えてしまいますが、テレビなど普及していなかった当時、映画館に足を運ばなければ体験できない衝撃映像だったはず。客席から恐怖と興奮の悲鳴が上がった様子が想像できます。
 化け猫は猫々しく連続パドシャ(猫のように跳びはねるバレエのステップ)で逃げ、火の見櫓に追いつめられて、有馬大学が弓で射ます。射られて落ちても猫なので難なく着地。
 チャンバラシーンでは同一平面上の横から横の動きになるので、この火の見櫓が画面に縦の変化を与えダイナミックな効果をもたらしています。化け猫に襲われたおこよのおつきが火の見櫓の軒先に吊るされている、というオープニングも衝撃的です。

◆化け猫盛衰記

 大映は、1950年代に7本もの化け猫映画を生み出しますが、化け猫映画無声映画の1910年代から作られ、トーキー化後、元祖化け猫女優と言われたのが妖艶な鈴木澄子。1937年の『佐賀怪猫傳』(監督:木藤茂)から1940年まで、相次いで化け猫映画に出演しています。新興キネマなどのB級映画会社が作ったこの映画の成功によって、かつてゲテモノの扱いだった化け猫映画が次々作られることになったそうです(注4)。
 その人気カテゴリーである化け猫映画は、その後1953年の『怪談佐賀屋敷』まで作られませんでした。1939年10月の映画法施行による娯楽から戦意高揚ものへの戦時下の映画統制のためと、戦後のGHQによる占領政策によって、封建主義や仇討ちなどを題材としたものが描けなかったからです。
 1952年4月に占領が終わり、禁止されていた封建主義・仇討・自殺(切腹)などを描く時代劇が復活。
 新興キネマ時代に鈴木澄子の化け猫映画を手掛けていた大映(1942年に新興キネマ大都映画・日活が統合して誕生)のプロデューサーの永田雅一入江たか子に白羽の矢を立て(注5)、再び化け猫が日本映画に跳梁(ちょうりょう)することとなりました。

◆戦争と猫

 戦時体制下、映画フィルムの輸入は停止、国産フィルムは主に軍需利用など映画は冬の時代。猫にとっても受難の時代だったようです。軍用犬にするとか、毛皮を兵隊の外套にするとかで、一般市民の飼い犬が供出させられたという話は聞いたことがあると思いますが、『猫が歩いた近現代 化け猫が家族になるまで』(真辺将之著/2021年/吉川弘文館)によれば、飼い猫も毛皮目的で供出させられたことがあったというのです。ただし、猫の方は行われた地域と、行われなかった地域とかなりバラツキがあったそうです。また、猫など飼っていると白い目で見られたり、疎開する飼い主が捨ててしまったり、戦中戦後の食糧難で食べられたり、牛などの肉と偽って猫の肉が売られたりしたこともあったということです。東京大空襲では、焼け残った築地小学校に、周辺から逃げ延びた何千という猫が集まっていたという証言も紹介されています。

 いま、ロシアのウクライナ侵攻によって、動物と人との悲しい別れもおびただしい数に上っていることでしょう。秋田犬を飼っているあの人なら、その悲しみがわからないはずはないと思うのですが・・・。地球上の誰一人、誰一匹、これ以上戦争による犠牲を増やさないでほしいと思います。

 

eigatoneko.com

 

(注1) 参照:『大映特撮映画DVDコレクションNo.47「怪猫有馬御殿」』2016年/
    (株)ディアゴスティーニジャパン(以下『大映DVD』と略記)

(注2) 猫塚・猫石には立ち入りが難しいので立ち入らないようにという岩﨑氏のお話
     です。詳しくは同書「有馬家上屋敷跡」の項をご参照ください。

(注3) 『大映DVD』付録DVDジャケットより

(注4)(注5) 参考:赤堤孝三/大映閑話「大映猫映画前史」『大映DVD』より

 

◆パソコンをご利用の読者の方へ◆
過去の記事の検索には、ブログの先頭画面上部の黒いフチの左の方、「この映画、猫が出てます▼」をクリック、
「記事一覧」をクリックしていただくのが便利です。

フランケンシュタイン(1931年)

香り高い英国文学を怪物のビジュアルを決定づけるホラーに改造した、映画史上の記念碑的作品。


  製作:1931年
  製作国:アメリ
  日本公開:未公開
  監督:ジェームズ・ホエール
  出演:ボリス・カーロフ、コリン・クライヴ、メエ・クラーク、ドワイト・フライ 他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    少女マリアのペット
  名前:不明
  色柄:キジトラ(モノクロのため推定)


◆メアリーの総て

 この映画の原作となった小説を書いたのは、イギリスの女性作家メアリ・シェリー(1797~1851年)です。彼女はのちの夫と詩人バイロンとその愛人らとバイロンの別荘で過ごしたときに、それぞれが幽霊話を披露しあうということになり、そこで思いついた話を19歳のときに小説としてまとめ、1818年に出版します。そのときは、著者は夫と推定される形をとっていたそうです。この頃は女性が自身の名で小説を発表したりするのは勇気がいる時代だったそうで、自身が著者であることを彼女が明らかにしたのは、1831年の第三版の出版のときだったということです(注1)。
 この小説について、映画から来る誤解を解く意味も交えて、京都大学大学院の廣野由美子教授が『批評理論入門――「フランケンシュタイン」解剖講義』(2005年/中公新書)という知的興奮の書にまとめています。また、メアリ・シェリーについては映画『メアリーの総て』(2017年/監督:ハイファ・アル=マンスール)に描かれていますので、ご覧になってください。

◆あらすじ

 ところはドイツ。科学者のヘンリー・フランケンシュタイン(コリン・クライヴ)は、助手のフリッツ(ドワイト・フライ)と共に墓から死体を、さらに大学の教室から犯罪者の脳を盗み出し、合体させて人里離れた塔の実験室で人造人間を創り出そうとしていた。彼は婚約者のエリザベス(メエ・クラーク)との結婚も忘れ研究に夢中だった。二人の共通の友人のヴィクター(ジョン・ボールズ)やヘンリーの大学の恩師・ヴァルドマン博士(エドワード・ヴァン・スローン)が心配してエリザベスと共に嵐の日に彼の実験室を訪ねると、激しい稲妻の閃光の中、雷の電気エネルギーを得て人造人間に生命が宿る。それは世にも醜悪な怪物だった。助手のフリッツが怪物を忌み嫌ってたいまつを突きつけると、怪物は怒ってフリッツを殺してしまう。
 ヘンリーは怪物を生み出した後悔で精神が不安定となり、父のフランケンシュタイン男爵(フレデリック・カー)とエリザベスに家に連れ戻される。怪物は、実験室に残って怪物の命を断とうとしたヴァルドマン博士を絞め殺し、脱走する。
 ヘンリーとエリザベスとの結婚式が行われることになり、ヘンリーの父の村の人々がお祝いで浮かれる中、怪物が近くの湖に現れる。少女マリア(マリリン・ハリス)が怪物を見つけ、一緒に遊んでいると、突然怪物はマリアを湖に投げ込んでしまう。
 マリアの父がフランケンシュタイン男爵のもとにマリアの遺体を抱いて現れ、マリアが殺されたと訴える。マリアを殺した怪物を生け捕りにしようと、ヘンリー、ヴィクターや領民たちはたいまつをかかげて怪物の行方を追う・・・。

◆初めての友

 湖のほとりで、怪物と少女マリアが横向きに見つめ合うこの映画のスチル写真を見たことがある方も多いと思います。それは、まるで愛し合う恋人同士を写したような幸福と平和に満ちた光景です。このあと、怪物がこの少女を水に投げ落とすなどという惨劇が起ころうとはとても思えません。
 幼いマリアは怪物に出会う前、父親から「猫ちゃんと遊んでおいで」と言われ、子猫を抱いて一人で湖に遊びに行きます。湖のほとりで花を摘んでいると、怪物が生まれて初めて見る女の子に不思議そうに近寄ってきます。マリアは初め少し驚きましたが、怪物を怖がらずに遊びに誘い、摘み取ったマーガレットの花を「ボートよ」と水面に投げて浮かべて見せ、怪物も楽しそうにしています。怪物は、マーガレットの花のように少女を水面に浮かべてみたくなったのでしょう。人間としての教育を一切受けていない彼は、そんなことをしたらどうなるかとの推理も善悪の区別も働かず、マリアを花と同じように投げ込んでしまうのです。怪物はマリアが沈んでしまったことに驚いて逃げ出します。
 この部分は、その後で父親がマリアの遺体を抱いて村に現れるシーンと共に、かなりショッキングです。アメリカでは、怪物が少女を投げ込むカットを削除して公開した地域があったそうです(注2)。
 無邪気な笑顔すら浮かべてマリアとひと時を過ごした怪物。人造人間として生まれさせられ、人として扱われたことのなかった彼が、初めて対等に接してくれた少女を殺めてしまう――彼の哀れさがひとしお胸に迫る場面です。
 ちなみに猫ちゃんは、マリアが怪物と遊び始めるときに放したので、難を逃れています。

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆誰がフランケンシュタイン

 「フランケンシュタイン」と言うとボリス・カーロフが演じた人造人間のことと思われてしまっていますが、あらすじを読んでおわかりの通り、フランケンシュタインは人造人間を作った科学者の姓で、人造人間は映画でも原作でも単に怪物(モンスター)と呼ばれています。映画のタイトルが『フランケンシュタイン』ですし、その強烈なインパクトからフランケンシュタイン=怪物という混同が生まれてしまっても仕方ないかもしれません。
 メアリ・シェリーによる原作の題名は『フランケンシュタイン または現代のプロメテウス』です。「プロメテウス」とは、神のものだった火を盗んで人間に与えたギリシャ神話の神の名前で、プロメテウスは最高神ゼウスから肝臓を鷲に食われるという罰を受けます。プロメテウスの肝臓は毎日再生し、鷲に食べられる苦痛をずっと味わわされることになるのです。神の領域に踏み込んで人造人間を創り出したフランケンシュタインの終わりのない苦しみを表現するものとして『現代のプロメテウス』という副題がつけられたのでしょう。
 ところで、映画にはもう一つの混乱があり、科学者はヘンリー・フランケンシュタインで、その友人がヴィクターとなっていますが、原作ではヴィクターはフランケンシュタインの名で、友人の名がヘンリーなのです。なぜこのようなことが起きたのかはわかりませんが、原作はこの映画より前に舞台で繰り返し上演され、初の映画化も1910年だったそうですので、その間に混乱が生じ、この映画まで受け継がれてしまったのかもしれません。

ボリス・カーロフ

 この映画の素晴らしさはイギリス出身の俳優・ボリス・カーロフが演じた怪物の、外見および内面の造形にあります。「はめ込まれた薄茶の眼窩とほとんど同じ色に見えるうるんだ目、やつれたような顔の色、一文字の黒い唇」「よみがえらされたミイラでも、あいつほどおぞましくはない」などの原作の記述をもとに、あの姿は創り出されました。この特殊メイクは、支度にもはがすにも3時間半ずつかかり、においがひどかったそうなので、ボリス・カーロフの肉体的・精神的消耗は並大抵のものではなかったでしょう。怪物の頬はこけ、深いくぼみができていますが、これは彼が歯のブリッジを抜いて作り出したものだそうです。また、ボリス・カーロフは本来とてもくっきりした大きな目の持ち主ですが、彼自身の発案で出っ張った眉の下にまぶたをかぶせ、半開きの目を創り上げたということです(注3)。カーロフは怪物の役に役者として真剣な情熱を傾けていたことがわかります。
 物言わぬ怪物の目からは、戸惑いや怯えといった繊細な心の動きが感じ取れます。それは怪物が獣などではなく、間違いなく人間的な存在であることを物語っています。フリッツやヴァルドマン博士に殺されそうになったので、自己防衛的に殺人を犯してしまうのです。
 ボリス・カーロフの演技は品格があり知性的です。人間としての悲しみを、目と、手と、全身の動きで表現しています。映画『フランケンシュタイン』のヒットは、彼の本格的な役作りによって生まれたと言えるでしょう。彼はその後多くのホラー映画にその足跡を刻んでいます。

 怪物に命を吹き込む実験室、電気エネルギーによる生命誕生の視覚効果も当時としては斬新なものだったことでしょう。このセットは1970年代まで使い回されたといいます(注4)。

◆怪物は怪物か

 科学者フランケンシュタインさながら原作をつぎはぎに作り変えてしまった個所は、この映画の中で随所に見られます。マリアの殺害も原作にはありません。
 最も不自然なのは、意図せず怪物がマリアを死なせてしまったあと、誰も現場を見ていず、フランケンシュタインの周辺の幾人かしか怪物の存在を知らないはずなのに、市長以下村人たちもこぞって怪物が犯人と決めつけ、捜索に向かう部分です。製作者側は儲かればよくて、このあたりのいい加減さには無頓着だったのかもしれませんが、悲しいのはラストです。一方的に怪物を悪魔のように追い詰め、めでたしめでたしとなるのです。原作では、怪物は言葉も覚え、自分を作っておきながら捨てて逃げたフランケンシュタインを憎悪して殺人鬼と化し、復讐を遂げたあと自ら死を選ぶのです。映画は大幅にそうした怪物の人間的側面を省略してしまっています。
 『ゴジラ』(1954年)や『空の大怪獣 ラドン』(1956年/いずれも本多猪四郎監督)など日本の怪獣映画では、害怪獣であってもその命を奪う心の痛みが描かれます。同じく本多猪四郎監督の映画『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』(1965年)では、実験的に生まれ、野生のまま育った男の子(フランケンシュタイン)が巨大化し、やはり自己防衛から人を殺して人間に追いつめられますが、最後に害怪獣を倒して地底に消えていきます。
 一度は彼を葬り去ろうとした日本人医師が「彼は永久の生命を持っている。いつかはどこかに出てくると思う」と言うのに対し、アメリカ人医師は「死んだ方がいいかもしれない。所詮彼は怪物だ」と言います。本多監督は『フランケンシュタイン』を見て、ラストに怪物への悼みがないことに戸惑ったのではないでしょうか。そのときに感じた日本との違いを、この映画の医師たちのセリフで表現しようとしたのかもしれません。

 ジェームズ・ホエールは、続編となる『フランケンシュタインの花嫁』(1935年)でも監督を務めています。エルザ・ランチェスターによる、原作者メアリ・シェリーと怪物の花嫁の一人二役、現代のホラーにも通用しそうな映像表現は今見ても鮮烈です。


(注1)『メアリ・シェリー「フランケンシュタイン」』
    (廣野由美子/2015年/NHK 100分de名著 NHK出版)より
(注2)『フランケンシュタイン』(NBCユニバーサル・エンターテイメント/2016年/
    Blu-ray)「メイキング」より
(注3) 同
(注4) 同

参考:
『批評理論入門――「フランケンシュタイン」解剖講義』(廣野由美子/2005年/中公新書
フランケンシュタイン』(メアリ・シェリー/森下由美子訳/2003年/東京創元社

 

【2023.07.21修正】

ボリス・カーロフの章

怪物の姿についての記述を、原作小説からの引用に修正。

 

eigatoneko.com

◆パソコンをご利用の読者の方へ◆
過去の記事の検索には、ブログの先頭画面上部の黒いフチの左の方、「この映画、猫が出てます▼」をクリック、
「記事一覧」をクリックしていただくのが便利です。