この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

不知火検校(しらぬいけんぎょう)

金が好き、女が好き。悪行をなめつくす盲目の極悪人を勝新太郎が怪演。座頭市の原点となった時代劇。


  製作:1960年
  製作国:日本
  日本公開:1960年
  監督:森一生
  出演:勝新太郎中村玉緒、近藤美恵子、須賀不二男、安部徹、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
  注:差別的な表現が出てきます。
  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    おはんのペット
  名前:不明
  色柄:黒


◆悪名

 前回の『はなれ瞽女おりん』(1974年/監督:篠田正浩)の盲目の女性・おりんの話に続き、今回は盲目の男性・杉の市をご紹介します。さだめに身をさいなまれた哀切なおりんの生涯に比べ、この杉の市は憎んでも憎み足りない極悪人。欲におぼれた杉の市に待っていたものは?

◆あらすじ

 江戸時代、盲目の杉の市(勝新太郎)は、江戸で按摩として暮らしていた。貧乏長屋の子どものころから悪知恵は人一倍。大人になってからは女性をおとしいれて平気で乱暴したりしていた。
 ある日、杉の市は按摩の師匠である不知火検校(荒木忍)の用事の折に鈴ヶ森で癪(しゃく)に苦しんでいた男に気づき、男が大金を持っていると知るや治療に見せかけて鍼で殺して金を奪う。それを生首の倉吉(くらきち/須賀不二男)という男に見とがめられ、金を半分やって口を封じる。倉吉は鳥羽屋丹治(安部徹)を頭領とする盗賊の一員で、それ以後、杉の市は倉吉たちに金持ちの情報を提供して強盗の分け前にあずかるようになる。
 杉の市の師匠の不知火検校もたんまりと金をため込んでおり、旗本の岩井藤十郎(丹羽又三郎)の妻・浪江(中村玉緒)から借金を申し込まれていたが、断るよう杉の市を岩井の屋敷へ使いに出す。浪江は弟が使い込みをした金を夫に内緒で穴埋めしようとしていたのだが、杉の市は師匠が断っても自分が金を貸すと言って五十両を渡して浪江を安心させ、すきを見て彼女に乱暴してしまう。さらに杉の市は浪江から金を取り上げて浪江が自分の家に取りに通うよう仕向け、夫にばれた浪江はついに自害する。一方、杉の市は丹治や倉吉に師匠の不知火検校を殺して金を奪えと指図し、初代亡きあと自分が二代目不知火検校の地位に収まる。
 不知火検校こと杉の市は、金と地位に物を言わせて巷で美人と評判の湯島のおはん(近藤美恵子)を妻にしたが、おはんにはもともと房五郎という恋人がいて検校に隠れて会っていた。検校はそれに気づいて二人を殺し、一方、将軍家姫君のご療治のため御殿に呼ばれることになった。検校は得意の絶頂で駕籠に乗って御殿に向かう。
 その頃、生首の倉吉は鈴ヶ森で杉の市に殺された男の殺人容疑で捕まっていた。倉吉は杉の市にはめられたことに気づく・・・。

◆白と黒

 この映画のラスト30分を切ったあたりで猫が登場します。最初は錦絵で。不知火検校となった杉の市が武士たちと酒を酌み交わす席で、湯島のおはんのことが話題になります。彼女を描いた豊國の錦絵が宴席に回され、検校も手でその絵をさぐり、おはんの美しさを想像します。錦絵・浮世絵には歌舞伎役者とか町で評判の美人がよく描かれ、美人のいる店屋には客が押し掛けたといいます。画像が情報発信の強力な武器というのは昔も今も同じ。その錦絵にはおはんとともに、白猫が描かれています。
 おはんが何をしていた女性かについては言及がありませんが、不知火検校は芸者だったおはんを身請けして妻にしたのだと思います。開いたふすまの向こうで会話する二人が見える隣の暗い部屋には床がのべてあり、1匹の猫が毛づくろいをしています。錦絵では白猫でしたがここでは黒猫。いずれにしてもおはんはかなりの猫好きのようで、常に猫を肌身離さず抱いています。この猫が黒いところが、検校との結婚が陰の気を帯びていることを思わせます。おそらくおはんは相手の目が見えないので房五郎と密会してもわからないだろうと高をくくって、検校の妻という身分を手に入れる一方で不倫を続けるつもりでいたのでしょう。しがない指物師の房五郎では一生自分を身請けして自由にしてくれる見込みはない。黒猫はそんなおはんの後ろ暗さを表しているように思います。
 けれども悪さについては検校の方が一枚も二枚も上。おはんが猫に話しかけている内容を聞いて、検校はおはんの隠し事に気づきます。皆さん、猫に秘密を打ち明けてはいけませんよ。

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆三つ子の魂

 映画が始まるとすぐ、七之助と名乗っていた子どもの頃の杉の市のエピソードが展開します。お祭で男衆がひしゃくで酒をすくって飲んでいると、桶の中に自分の洟を投入し桶ごともらって帰るという悪ガキぶり。さらに目が見えないことを利用してまんまと人をだますのですが、まだ映画を見ていない方のため、これは黙っていましょう。
 大人になってからは色欲が加わり、悪質さがエスカレート。杉の市に辱められて自殺した女性が二人、自分が直接殺したのが三人、間接的に他人に殺させたのが二人、極刑間違いなしの極悪人です。
 それなのに陰気な芝居になっていないのは、勝新太郎の天性のとぼけたような味のおかげ。杉の市の悪の天才ぶりに舌を巻き、次にはゾッとさせられ、時代劇らしいクライマックス、ラストのリアリズムに唸る、目を離すスキのない一作です。

◆カツシンと呼ばれた男

 勝新太郎が亡くなったのは1997年。自分でプロダクションを設立し、映画やテレビドラマを製作した彼は、シナリオを無視してその場でオリジナルの演出を思いつき、周囲を激しく混乱させたということですが、彼は即興型・憑依型の演技者だったのでしょう。『不知火検校』にその片鱗が見えます。
 「カツシン」と呼ばれ、ほかに比べられる人のない個性の持ち主。その人柄をしのばせる驚きのエピソードは書籍やインターネットなどで少し調べれば山と出てきます。私のお勧めの本は1冊丸ごと勝新太郎と著名人との対談集『泥水飲み飲み浮き沈み 勝新太郎対談集』(文藝春秋/文春文庫/2017年)。ただし、私は電車の中で読んでいて吹き出してしまいましたのでご注意を。

 我が白井佳夫師匠は勝新太郎と親しく、こちらもお勧めの本『銀幕の大スタアたちの微笑』(白井佳夫日之出出版/2010年)に面白く語られていますので、以下に少しかいつまんで紹介させていただきましょう。

 1965年に初めて会ったとき、すでに勝新太郎は大スターの地位にあったそうで、インタビューに訪れたキネマ旬報の若手編集者だった白井師匠は気後れしていたそうです。大映撮影所でおずおずと隣に腰を下ろした白井師匠に、勝は「この間この撮影所で誰だかわからないすごいいい女にすれ違った。とっさにフラフラとその女の後をついて行ったらその女が振り向いてにっこり笑った。えっと思ったら玉緒でやがんの!」と語ったとか。このとき勝新太郎中村玉緒と結婚して3年目、のろけ話だったのです。すっかり打ち解け、師匠はのちに勝新太郎を「勝ちゃん」と呼ぶ仲となったそうです。

 この『不知火検校』で勝新太郎中村玉緒にほれ込み、諸々のハードルを越えて口説き落とした末に結婚。「ガハハ」と笑う玉緒さんしか知らない若い方も、勝新太郎がほれ込んだ若き日のしとやかな姿をこの映画でぜひご覧になってください。

出世作

 そんな勝新太郎が個性派俳優の第一歩を踏み出した『不知火検校』。これより前の勝新太郎は二枚目の線で売り出されたものの人気が出ず、大映で同期の市川雷蔵に大きく引き離されていたそうです。私の見たところ、その頃の勝は丸顔のためりりしい若武者といった風情で、雷蔵に比べると大人の色気が足りません。
 その勝が中村勘三郎の舞台の『不知火検校』を見てどうしてもやりたいと思い、原作者の宇野信夫から映画化権をもらって自ら森一生監督に掛け合い、自分が思った通りに役作りをしたそうです(前掲書)。この役が評判を呼び、その後のアウトローでも憎めない独特のキャラクター、盲目の居合の達人・座頭市を生むきっかけとなったと言われています。

 二枚目時代の勝新太郎市川雷蔵と共演した映画はいくつもありますが、この映画で監督を務めた森一生の『薄桜記』(1959年)が有名です。

◆検校と座頭

 ところで「検校」と「座頭」とはどういう人なのか。このブログで以前取り上げた『怪談佐賀屋敷』(1953年/監督:荒井良平)では検校として龍造寺又一郎が登場しました。また、八橋検校という筝曲家の名を聞いたこともあるかと思います。
 明治初期には廃止されたそうですが、室町時代以降、当道という座(職能集団)が組織され、盲人は按摩や鍼灸、琵琶や三味線や筝曲などの技能を習得し、それによって自活していました。江戸時代には身分によって従事できる仕事が決まっており、盲人は当道座によってそれらの職能を独占的に彼らのものとしていたわけです。当道には官位があり、上から検校、別当、勾当、座頭と分かれていて、この映画の中で殺された初代不知火検校が言っていたように、家柄や人格、技能の優劣に加え、上の位に上がるために官位を金で買うこともあったようです。身分制社会では盲人の間にも生まれの違いで階級差別があったわけです。また当道は男性だけの集団で、瞽女瞽女集団での官位があったそうです。
 初代不知火検校は弟子の座頭たちを前にして「お前たちの中で検校になる見込みのある者があるか」と問います。そこで杉の市が自分がなる、と声を上げます。貧乏長屋出の杉の市がそう言ったので、初代もほかの座頭たちも鼻で笑います。杉の市のそのときの不気味な表情。
 初代不知火検校は杉の市の手引きで殺され、杉の市はその貯め込んだ金を奪い取って、言ったとおり検校の位を手に入れるのです。思えば、七之助と名乗った子どもの頃、母親が「千両あれば検校になれるのに」と泣きわめいたとき、彼の人生のシナリオが決まったのかもしれません。江戸時代の社会制度が彼をこのような怪人に育ててしまったと言えるでしょう。

 

(注):「当道」については、『瞽女うた』(ジェラルド・グローマ―/岩波書店/2014年)のほか、インターネットの「コトバンク」を参考にしました。

 

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はなれ瞽女おりん

瞽女(ごぜ)と呼ばれる盲目の女芸人の集団からはぐれ、女の血に導かれるままおりんがたどり着いた運命は・・・。


  製作:1977年
  製作国:日本
  日本公開:1977年
  監督:篠田正浩
  出演:岩下志麻原田芳雄、安部徹、奈良岡朋子樹木希林、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    瞽女屋敷の猫
  名前:なし
  色柄:黒

日本海

 横浜で生まれ育った私には、海と言えば東京湾であり、遠足や遊びで訪ねた三浦半島相模湾の穏やかな海でした。初めて日本海側を訪れたとき、海の黒さと波の猛々しさに息を呑みました。それは命をはぐくむ母なる海ではなく、人を死の世界にさらう荒涼とした海に見えました。
 おりんはその日本海の海岸線から長野の善光寺まで、目の見えない身でひたすら歩いて旅をします。
 盲目の女性たちが三味線や歌を習い覚え、集団で巡業して門付けとして芸を披露した瞽女。ことに雪に閉ざされた地域や辺鄙な寒村で、瞽女はその芸と一種の宗教的な力を帯びた存在として歓迎されたといいます。瞽女が最後に残ったのは新潟の長岡と、この映画の瞽女屋敷があった高田で、高田には現在「瞽女ミュージアム高田」が設立され、高田瞽女の文化の保存と発信が行われているということです。

◆あらすじ

 明治の終わり頃、若狭の小浜でおりんという6歳の盲目の娘が母に捨てられ、越後の高田の瞽女屋敷にやられた。瞽女屋敷ではおりんより年かさの盲目の娘たちがおかんさま(奈良岡朋子)のもとで日常生活をこなし、三味線や歌などの芸を仕込まれ、集団で門付け芸を披露して生計を立てていた。おりんは芸の覚えがよく、人気があった。
 瞽女の集団には、男と交わってはならないという規律があったが、21歳になったおりん(岩下志麻)は、瞽女仲間と妙音講(芸能の神・弁財天を祀り仲間意識を高める年に一度の行事)のときに泊まった家で忍んできた男に体を許してしまう。禁を犯した者は集団から追放され、一人で生きていかねばならなかった。おりんはおかんさまから叱責され、はなれ瞽女となる。
 おりんは26歳のとき、山の中で無骨な鶴川と名乗る男(原田芳雄)に出会う。鶴川はおりんの旅についてきておりんを付き人のように守り、おりんが門付け芸をしなくて済むよう、兄妹と称して下駄直しの行商を始めるが、おりんには指一本触れようとしなかった。
 柏崎の縁日で露店を出していたとき、土地のヤクザにからまれ、ケンカになって鶴川は警察に連れていかれるが、数日たっても戻ってこない。鶴川を待つおりんを縁日で隣で店を出していた薬売り(安部徹)が襲い、おりんは自分から帯を解いてしまう。
 薬売りがおりんを置いて去ったとき鶴川がやって来て、何があったかを知る。鶴川は逆上してノミを持って薬売りの後を追う。鶴川は殺人容疑をかけられ、おりんと別れ別れになって逃げるが、二人は善光寺で再会する。その夜、鶴川は初めておりんを抱く。だが、鶴川は別の罪でも追われていた・・・。

◆光る瞳

 この映画に登場するのは1匹のしっぽが短く曲がった黒猫。瞽女屋敷で娘たちが仏壇の前で勤行をしているときに、雪の積もった戸外から中に入って後ろを通り過ぎて行ったり、毎晩男と逢瀬を重ねる娘におかんさまが折檻するさまをじっと見ていたり、初めておりんが男に肌を許したときに見えない何かを目で追うような表情を見せたり、おりんが放浪の末、高田の瞽女屋敷におかんさまを訪ねてきたときに、誰もいない屋敷に主のように座って鳴いていたりします。
 ミステリアスな雰囲気を醸し出す者として、黒猫以上の役者はいません。この映画では、ことにその光る瞳が何かを語りかけてきます。目を閉じている盲目の女たち、その傍らで猫は瞳をじっと凝らしています。それは彼女たちがその体をお預けしたという阿弥陀如来の目のようでもあり、女たちを束ねて生きる術を叩きこむおかんさまの目の代わりを務めているかのようにも見えます。「おらたちが地獄を見ないですむよう、阿弥陀様がおらたちの目を見えなくしてくれた」というおかんさまの教え。猫は瞽女一人一人の宿命と地獄をじっと黄金色の瞳で見つめているのです。

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆落とされる

 『はなれ瞽女おりん』では、瞽女屋敷に入って2年たつと3年目の祝があり、7年で出世名をもらう名替えがあり、8年目でお姉さんになり、それに3年経つと年季明けで、初めて一人前の瞽女になれるとおりんが語っています。おかんさまは10年かけてやっと一人の瞽女を育て上げるということになります。一人前と言っても独立するのではなく、育った集団に所属し、映画のように前を歩く瞽女の肩に手を置いて列を作って方々を旅して歩き、普段は瞽女屋敷で集団生活を続けることになります。それは、目の見えない身寄りのない女性たちが相互に助け合い自立するために編み出された仕組みです。
 瞽女の由来は「瞽女縁起」に、瞽女の掟と罰は「瞽女式目」にしたためられ、どちらも妙音講のときに僧侶によって読まれたと言います。男と交わってはいけないという規律は瞽女式目には明記されていないとのことですが(注)、メンバーが結婚したり子を持ったりして抜けてしまえばその相互扶助のシステムが維持できないということから生まれたものでしょう。また、いかがわしい女性の集団のように思われてしまえば、芸によって自立するという彼女たちの価値と信用を失ってしまいかねません。
 その規律を守るために、瞽女たちは仏の慈悲にすがって生きている身だと言い聞かせられ、その体を阿弥陀様に預け、自分の自由にすることはできないと戒められています。けれども、死ねば極楽浄土に迎えてくれるという阿弥陀様の遠い将来の約束も、若い血を鎮めることができません。規律を破る娘たちを追放する「落としてやる」という言葉が示す先は地獄。そうしておりんも落とされてしまいます。

◆旅路の果て

 はなれ瞽女となったおりんを、色々な男が手引きと称して体目当てで道案内をします。おりんもそれを承知で男を受け入れ、代わりに銭をもらいますが、初めておりんが心から愛を感じた鶴川という男はおりんが求めてもおりんを抱こうとはしません。皮肉なことに禁を犯しけがれた存在であるおりんを鶴川は「仏様のようじゃ」と崇めます。おりんの葛藤は愛する鶴川と結ばれたいということ以上に、燃えさかる肉体の持って行き場がないことにあります。薬売りに抱きすくめられ、おりんは欲望を開放してしまいます。鶴川はそんなおりん自身よりも自分にとって聖なるものであるおりんを薬売りが汚したことが我慢ならなかったのです。
 鶴川が逮捕され、再びはなれ瞽女となったおりんが高田の瞽女屋敷を訪ねると、おかんさまは既に亡くなっていました。寄る辺ないおりんは故郷を目指しますが・・・。

 映画のラストについては、私はあまりに直接的な表現にややたじろぎました。ここまで描かなくても誰でも想像がつくであろうことを、わかりすぎるくらいわかりやすく示して見せ、それまで積み上げてきた情趣を壊してしまったのではないかと思います。カラスが飛んでいるだけでも十分だったのではないでしょうか。

◆さだめ

 主演の岩下志麻の夫・篠田正浩監督のシャープな美的感覚、日本映画の数々の名作を手掛けた宮川一夫のカメラ、武満徹の音楽、新潟や福井の厳しく人を寄せ付けない自然、今は失われた瞽女の旅、日本的な情念が極めて洗練された形で繰り広げられたこのフィルムに、ついノスタルジックな感傷をかきたてられそうになりますが、ここに描かれているのは人間を縛る冷酷なさだめ。因果応報と地獄のイメージにいろどられた説法の世界です。
 鶴川もおりんと同じように社会の片隅で虐げられていました。彼が薬売り殺しのほかに犯したもう一つの罪は、貧しい者が支配層によって押し付けられた差別から生まれたものです。彼がおりんを仏様のように大事にし指一本触れなかったのは、おりんを俗のけがれとは無縁な清らかで尊ばれるべき存在と見ることで、おりんと同じ虐げられた存在であるおのれの自尊心を取り戻すことができたからではないでしょうか。皮肉なことにおりんが求めていたものはそれとは逆の現世的な欲でした。この二人が出会ったことも一つのさだめの厳しさと言えるでしょう。

 原作を書いた水上勉は、松本清張と同じように社会派サスペンスで有名ですが、生まれ育った日本海側の風土を舞台としたより文学的な香りの小説で、『雁の寺』(1962年/監督:川島雄三)、『越前竹人形』(1963年/監督:吉村公三郎)、『飢餓海峡』(1965年/監督:内田吐夢)など、多くの映画の原作に選ばれています。水上勉の人生自体が映画や小説以上に波乱万丈で、その世界に仏教の匂いが漂うのは、子どもの頃に口減らしのために禅寺に小僧に出された経験によるものでしょう。
 『はなれ瞽女おりん』は1918年に始まった日本のシベリア出兵のことにも少し触れています。これは学校ではほとんど教えられない日本の不都合な歴史のひとつでしょう。いつの世でも戦争は似たような口実で始まり、ひとたび始まるとなかなか終わらないもの、と重苦しい気持ちになるばかりです。


注:「瞽女縁起」「瞽女式目」についての記述は『瞽女うた』(ジェラルド・グローマ―/岩波書店/2014年)を参考にしました。

 

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スペシャリスト(1994年)

爆破のプロがセクシーな美女に親の仇の始末を依頼される。彼の本当の敵は・・・


  製作:1994年
  製作国:アメリ
  日本公開:1995年
  監督:ルイス・ロッサ
  出演:シルベスター・スタローンシャロン・ストーンジェームズ・ウッズ
     ロッド・スタイガー 他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    主人公レイのペット
  名前:タイマー
  色柄:長毛のサバ白


◆something special

 邦題で『スペシャリスト』という映画はいままでに3本公開されていて、リメイクではなく内容はそれぞれ全く別。この作品以外では、1本はイタリア・フランス等合作の1969年のマカロニ・ウエスタン(監督:セルジオ・コルブッチ)、もう1本は1984年のフランスの金庫破りもので、意外や恋愛映画やコメディのイメージが強いパトリス・ルコント監督作品。3本とも原題がそれぞれの国の言葉で『スペシャリスト』となっています。ちなみにパトリス・ルコントの映画は、この『スペシャリスト』より前に製作されていますが、日本では後から公開されています。

◆あらすじ

 コロンビアでCIAのレイ(シルベスター・スタローン)と上官のネッド(ジェームズ・ウッズ)は任務により麻薬王の車を爆破しようとしていた。直前、レイは子どもが乗っていることに気づき止めようとしたが、ネッドはとりあわず、車は爆発炎上。レイはネッドを告発してやると言って殴りつける。
 時は10年後に飛び、マイアミで爆破請負人をしているレイはある女から爆弾での殺しを依頼される。女の名はメイ(シャロン・ストーン)。子どもの頃に父母を殺され、その恨みを晴らしたいと言う。レイはメイを思いとどまらせようとするが、彼女のペースに巻き込まれてしまう。
 メイは親の仇の三人組のリーダーのトーマス(エリック・ロバーツ)を誘惑し、手下の二人がレイの爆弾で消される。悪の組織の首領でトーマスの父・ジョー・レオン(ロッド・スタイガー)は、組織の片腕として雇った男に、買収した警察と協力して犯人を捕えるよう命令する。その男はレイのCIA時代の上官のネッドだった。ネッドは、爆破事件はその手際からレイの仕事だと感づいていた。
 レイはトーマスを爆弾で仕留めるが、メイが巻き込まれてしまう。メイの葬儀の告知を見てレイが訪れると、なんと生きているメイが現れる。二人はその夜、情熱的に愛し合う。翌朝、メイの姿はなく「私は信じてはいけない女」というメモが残されていた。メイは、レイの告発でCIAをクビになったネッドがレイへの報復をたくらんで彼をおびき寄せるために使った罠だった。
 ネッドは警察を指揮してレイの隠れ家を包囲する。隠れ家にはレイによっていたるところに爆弾が仕掛けられていた。そこにはメイもいた・・・。

◆ついてきた猫

 レイの猫はその名もタイマー。自分で時限爆弾を作るレイが、仕事に不可欠な道具の名をつけて愛着のほどを示しています。タイマーは、メイからの殺しの依頼の電話を切ったあと、レイの足元についてきます。その頃はまだノラ猫か迷い猫。いつまでもついてくる猫を「俺に惚れたか」とレイが抱き上げ、自分の隠れ家に連れて行ったのです。レイについてきた夜、並んで歩く姿が背後からの光でシルエットとしてとらえられ、明かりに浮かび上がったふわっとした美しいしっぽにほれぼれします。
 レイの隠れ家のシーンでたびたび登場するタイマー。レイが精密な爆弾作りの作業をする場面で、猫が机に飛び乗って起爆でもしては・・・と思っていたら、作業場は金網で囲ってあり、近づけないようになっていました。レイが上半身裸でエクササイズをする場面では、シルベスター・スタローンの肉体に思わず見とれてしまいますが、彼の手前で黙々とごはんを食べるタイマーがちゃんと映っていますので、見落とさないであげてくださいね。
 タイマーを演じた猫の名はエルヴィス。主人公が危ない橋を渡るような映画で、ペットの猫がどうなったかまでは描かれず、猫の運命が気になって仕方がないと再三申している私ですが、この『スペシャリスト』では、ラスト近く隠れ家が爆発する直前、タイマーがいち早くシェルターに飛び込むところがちゃんと描かれています。もっとも、その後最終的にどうなったかまではわからないのですが・・・。

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆禁断のアクション

 『ロマンシング・ストーン 秘宝の谷』(1984年/監督:ロバート・ゼメキス)の記事で、自分にはアクション映画を見るセンスがないと言っておきながらまたもやアクション映画を取り上げてしまいました。『ロマンシング・ストーン・・・』と同じく、この『スペシャリスト』も女性による脚本。『ロマンシング・ストーン・・・』の脚本のダイアン・トーマスは、ウエイトレスをしながら脚本を書いていて、それがマイケル・ダグラスの目に留まったそうで、いわばアマチュアの脚本家だったわけですが、『スペシャリスト』のアレクサンドラ・セロスの脚本はそれに比べるとサービス精神たっぷり、こなれたプロの仕事だと感じます。
 見せ場はやはり爆発のシーンと、シルベスター・スタローンシャロン・ストーンのからみ。悪の組織に家族を殺された女性が仇を討つためにプロを頼る、というところはリュック・ベッソン監督の『レオン』(1994年)にも似ています。『レオン』でゲイリー・オールドマンが演じた殺しに異常な執着を見せるスタンスフィールドも、ネッドと重なりますね。

 レイは殺人ではなく爆破のプロのため、初めはメイの依頼を断りますが、メイの電話の声と容姿に心を動かされてしまいます。メイは女としての自分を武器にレイ、トーマス、そしてネッドとの関係をぐいぐいと築きますが、失敗することなど微塵も考えていない自信がすごい。
 それにしても爆破請負人とは普段一体何をしているのか、レイがどうやって生計を維持しているのか全くわからず。そういうことを気にしているからアクション映画についていけなくなるのですね。

◆見られる肉体

 『ロッキー』シリーズや『ランボー』シリーズでマッチョな姿がお馴染みのシルベスター・スタローンがこの映画で惜しげもなくその肉体をさらけ出しているのは、先ほども言ったようにシャロン・ストーンとのからみ。初めはベッドで、そしてシャワールームで、濃厚なラブシーンを演じます。どちらかと言えばシルベスター・スタローンの裸体を映すのが主になっていると思うのですが。
 シャロン・ストーンはこの映画の2年前の『氷の微笑』(1992年/監督:ポール・バーホーヘン)で大ブレイク。殺人容疑で警察の尋問を受ける場面でミニスカートの脚を何度も組み替え、色々な意味で話題をさらいました。セクシー女優というレッテルのもと『スペシャリスト』のメイ役は彼女に当てて書かれたのではと思うほど。が、レイと情熱がほとばしるまま抱き合う場面はともかく、電話をしながら意味もなく裸の胸を出したり、Tバックショーツのお尻を見せたり、ノーブラでぴったりしたニットのドレスを着たりなど、性的商品化された女優としての姿が目立ちます。
 彼女が悪役で出演した、猫がたくさん出てくる映画『キャットウーマン』(2004年/監督:ピトフ/ワースト映画を選ぶゴールデンラズベリー賞でこの年の最低作品賞、監督賞など4部門受賞)では、彼女は裸を見せることはありませんでしたが、主役のキャットウーマンを演じたハル・ベリーが、隠す部分は最小限のキャットスーツ(?)を着てお尻を振って歩いており、セクシーと言うより女性の性的な身体を過度に強調して見せています。猫だったら着ぐるみにすれば、と言いたいところです。

◆情報戦

 時代を感じると言えば、この映画にとても懐かしいものが出てきます。パソコン通信です。今のようにインターネットで世界中の誰とでも繋がれるようになる前、パソコンなど通信用のソフトを備えた端末を電話回線につなげて利用する会員制の通信サービスがありました。レイはこれを使って爆破請負の広告を会員用の電子掲示板に出し、メイがそれを見て電話番号を連絡してきて、それを見たレイが公衆電話でメイに電話し、通話の音声を日時別にフロッピーディスクに保存、というややこしいやりとり。けれどもそれを映画の中でつぶさに見せているので、当時としてはハイテクだったのでしょう。
 親のかたき討ちの依頼を装って裏ではネッドがレイへの復讐のためにメイを送り込もうとしていたわけですが、先ほども言ったように、インターネットと違ってパソコン通信はその運営会社に登録した会員間だけのサービス。メイにレイとコンタクトを取らせるまでにネッドがどこまで骨を折ったのやら…。
 もう一つ懐かしいと思ったのは、公衆電話の通話録音を聞いてその周囲でバスの停留所を乗り降りする物音を拾い、ネッドがレイの居場所を突き止めるところ。1963年の黒澤明監督の『天国と地獄』(アメリカのエド・マクベイン推理小説『キングの身代金』が原作)での、犯人からの公衆電話の録音で江ノ電特有の音を聞き取り、犯人の居場所を絞り込んでいく場面を思い出します。

◆熱量の時代

 映画の開始から終了まで8箇所で繰り返される爆破シーン(最後は炎のない爆発)は実写ならではの大迫力。撮影、録音、美術、安全対策・・・やり直しのきかない一発勝負です。CGによる映像加工が可能になっている今では、もうこんな大がかりで危険を伴うシーンは撮れないのではないでしょうか。『スペシャリスト』は、大勢のスタッフが映画を動かしていた、コンピュータが世の中を席捲する前の、そして女性の身体の捉え方が見つめなおされる前のひとときを示す作品であると言えるでしょう。最後に登場する大型のオープンカーも、もう何年か後の世代が見ると「なんでこんなに大きな車が必要だったのか」と驚くかもしれません。

 エンドロールに流れるディスコミュージックが映画と時代を華やかに締めくくって・・・幕。

 

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