この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

ミッドナイト・エクスプレス

脱獄もの映画の名作のひとつ。ただし手放しには楽しめないことが・・・。

 

  製作:1978年
  製作国:アメリ
  日本公開:1978年
  監督:アラン・パーカー
  出演:ブラッド・デイヴィス、ポール・スミス、パオロ・ボナチェッリ、
     ジョン・ハート 他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    友人マックスのペット
  名前:なし
  色柄:茶白ブチ
  その他の猫:刑務所出入りの通いの三毛猫

◆深夜急行

 列車にはドラマがあります。「トワイライト・エクスプレス」、「シンデレラ・エクスプレス」…ロマンチックな響きの列車を、コマーシャルと共に思い出す人もいらっしゃるでしょう。「トワイライト・・・」は、日本周遊の豪華列車、「シンデレラ・・・」は、遠距離恋愛カップルの片方が、デートを終えて自分の住む町に帰るために乗る、日曜の最終の新幹線。この映画のタイトルの「ミッドナイト・エクスプレス」は、刑務所用語で「脱獄」のこと。その言葉の意味を主人公に教えてくれたのは、刑務所で知り合った先輩格の囚人です。彼はつぶやきます。「だが、ここには止まらない」と。

◆あらすじ

 ガールフレンドのスーザン(アイリーン・ミラクル)と、トルコのイスタンブールに旅行に行ったアメリカ人のビリー・ヘイズ(ブラッド・デイヴィス)は、帰国の日、アメリカの友人に渡すつもりで体に麻薬を隠して空港に向かった。挙動不審のビリーは空港で捕まってしまい、刑務所に送られる。そこは所長のアミドウ(ポール・スミス)や、雑役係のリフキ(パオロ・ボナチェッリ)が、暴力や密告で非人間的な支配を行う場所だった。ビリーは、刑務所で知り合ったジミー(ランディ・クエイド)やマックス(ジョン・ハート)たちから、ここを早く出るには脱獄しかないと聞かされる。ビリーの4年2カ月の刑期が残り53日になったとき、裁判のやり直しがあり、刑期が30年に改められてしまう。ビリーは脱獄の道を真剣に考え始める。
 ビリーたち3人は獄舎の中の脱獄ルートを探り出すが、あと一歩のところでリフキが気づいて所長に密告し、ジミーが連行される。さらにリフキがマックスから麻薬を手に入れたと濡れ衣を着せ、怒りのあまり、ビリーはリフキを残忍な方法で殺してしまう。
 ビリーは精神を病んだ囚人ばかりの棟に送られ、心のバランスを失っていった。そんなある日、スーザンがアメリカから面会に訪れ、ビリーを励まして帰っていく。ビリーは正気を取り戻し、所長のアミドウにここから出して病院に入れてくれと交渉するが・・・。

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◆窓からこんにちは

 この映画で、主に出てくる猫は、ビリーの先輩格の刑務所仲間・マックスのペットの茶白のブチの猫。マックスはこの猫をいつもそばに置いてかわいがっています。猫は刑務所の窓から出入りしています。ビリーが夜中に三毛猫を抱き上げるカットがありますが、これはマックスの猫とは別の通い猫のようです。猫が出るのはマックス登場から全体の5分の2くらいまでの間です。
 この刑務所は、鉄格子でガチガチに閉じ込められているとか、狭い部屋に大勢が押し込められているとかいう環境ではありません。囚人は私服で、運動場ではまるで中学校の昼休みのように大勢の囚人が遊んだり体を動かしたり、結構自由そうに見えますが、言い換えれば無秩序、規律なし。所長が囚人に暴力をふるったり、雑役係のリフキが囚人から搾取に近い商売をしたりなど何でもありで、一見寮のような獄舎には、刑務所ものお決まりのネズミではなく、猫が窓から出入りするラフさがあるわけです。イスタンブールは猫の街、と言われるくらい街中に猫が多いことで知られていますが、刑務所の中にまで出没しているとは。
 マックスとリフキの間でいさかいがあったあと、マックスの可愛がっている猫にリフキがしたむごい仕打ち。肩を震わせるマックスを、囚人たちが同情とやるせなさの混じった視線で見つめます。リフキはざまあみろと言わんばかりにほくそ笑んでいます。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

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◆押さえておくべきこと

 この映画は、ビリー・ヘイズという、映画の主人公と同名の人物の実話をもとに、彼とウィリアム・ホッファーが出版した原作をオリバー・ストーンが脚色したもので、アカデミー脚色賞、ゴールデングローブ脚本賞など、数々の賞を受賞しました。が、映画化にあたり、かなり原作にない要素を付け加えてしまったようです。映画の中心を貫いているのは、アメリカとトルコの文化的な異質性で、明らかにアメリカから見てトルコが非文明的であるという立場で描かれています。もはや現在は、異文化や他民族を一方的な価値観から描くことの許されない時代となりましたが、事実としてあることは事実として伝えるべきという側面もあります。それだけに、ドラマ的に面白くしようとして手を入れたと聞くと、この映画に描かれていることのどこまでが事実か、この映画をどう評価すべきか、という問題が浮かび上がります。
 原作者のビリー・ヘイズは、映画の公開から30年近くたった2007年にトルコを訪れ、この映画には過大な誇張がある、長年にわたりトルコのイメージを悪くしてきたことを遺憾に思うと、記者会見で発表。それまでに誤認されている事実を改めたいと再三にわたりメディアに表明してきたにもかかわらず、この映画の影響力によってかき消されてしまった、自分が伝えたかったメッセージは、「トルコに行くな」ではなく、「自分のように、麻薬を密輸するなどという馬鹿な考えを起こすな」ということだった、と語ったそうです(注)。
 つまり、この映画は、最初に実話であるという字幕が出ますが、実態は実話をヒントにしたフィクションだと思って見なければなりません。他国や他民族の名誉を傷つけるという、誤った姿勢のもとに作られているのです。

◆映画の魔力

 そういうわけで、ここでは以後、舞台は「某国」としたいと思います。ここでいまさら私が言い換えたところでどうにもなるものではないとも思いますが、そうさせてください。
 そもそも、この映画が注目に値しない作品だったら、一つの国のイメージを長年にわたって悪くするほどの力は持たなかったはずですが、幸か不幸か、この映画は人の心をぐっとつかむ魔力を秘めていました。
 まず、この映画で主人公のビリーを演じ、ゴールデングローブ新人男優賞を受賞したブラッド・デイヴィスの魅力です。ほんの出来心で、すぐにばれそうな単純な手口で麻薬を国外に持ち出そうとする、悪ずれしてないお坊ちゃん育ちの主人公にぴったりです。
 自分では麻薬をやっておらず、金儲けをしようという悪質な動機もないのに、アメリカに比べて某国では重罪、そして収監された刑務所は非道な世界――、ドラマとして主人公に同情を集めさせ被害者として描くには、こういう無垢なタイプの若者を持ってくることがポイントです。刑務所に入って坊主頭にしてからは、甲子園球児のようなピュアさがアップ。こんな若者が裁判で司法の問題を糾弾する演説を行うシーンを見れば、観客はたちまち彼に共感してしまいます。
 けれども、その演説は論理の筋道としては感動的ですが、内容は某国を非難し、侮辱するものでした。ビリーに同一化した観客は、その主張を某国に対する自分の見方として取り込んでしまいかねません。このことは、映画がプロパガンダ(意図をもって多数の人の意見を特定の方向に誘導しようとする宣伝活動)として利用されることの怖さに通じるものです。

◆面白ければいい?

 この映画が、わざわざ某国にケンカを売る目的で作られたとまでは言えないように思いますが、ドラマ的に面白くしようとするあまり、突っ走ってしまったのでしょうか。映画の中でたびたび触れられているように、この当時はアメリカと某国の関係は良くなかったようで、それも影響しているのかもしれません。原作者のビリー・ヘイズが言っているように、麻薬を密輸しようなどという馬鹿なことはするな、というメッセージではなく、某国は前近代的で恐ろしい所というメッセージばかりが伝わってきます。
 某国代表の敵役はどす黒い人物ばかり。所長、リフキ、金でビリーの罪をもみ消そうと画策する弁護士、ビリーを見せしめとして重罪を課そうとする検事、いい人は一人も出てきません。原作をどこまで反映しているかはわかりませんが、過ちを犯した若者を無慈悲にいけにえにする悪魔の集団、という手なれた描き方で映画はヒートアップします。

◆あいた風穴

 たまりにたまった怒りを爆発させ、リフキを殺したビリー。幽鬼のような囚人たちに囲まれ、魂の抜けた彼のもとに、思いがけずアメリカからガールフレンドのスーザンが訪ねてきます。ビリーが収容されて以来4年を超える月日で、初めてまともな社会と交流する窓が開かれます。
 掘っ立て小屋のような面会室で、スーザンに会ったビリーは、話も上の空で「脱いでくれ」と要求。彼女のはだけた胸を見て、ガラス越しにエクスタシーに達してしまいます。ビリーが常軌を逸した精神状態であることを描きつつ、病人のように見えるその体に若者らしい生命力が流れていることを物語る、印象深い場面です。
 スーザンは、家族の写真を収めたアルバムをビリーに見せ、何も写真のない裏表紙を叩いて、「あなたのお友達のフランクリンさん。覚えてる? 銀行にいるわ」と、謎のようなことを言います。日本だったら、「あなたのお友達の福沢諭吉さん」と言うところ。「ベンジャミン・フランクリン」が隠されたアルバムはビリーに渡されます。
 「自分だけを信じて」「ここにいたら死ぬわ」と叫ぶスーザンを茫然と見送ったビリーは、囚人たちが右回りにぐるぐると歩く柱の周りを、一人で逆方向に回りだします。ここの秩序に逆らって自分だけを信じようとするかのように。スーザンが来てから、ミッドナイト・エクスプレスが起動します。閉塞した状況を打ち破るために、新鮮な空気が吹き込まれることが必要だったのです。
 映画は、驚きのラストに向って疾走します。狂気の所長とビリーの対決が極限に達したそのとき、事態が動きます。

◆映画界の課題

 ビリーを演じたブラッド・デイヴィスは、コカインの過剰使用の上、エイズを発症、41歳で自宅で幇助自殺したということです。彼自身の最期に薬物が影を落としたという皮肉。この映画から彼が得たものは何だったのか、残念としか言いようがありません。
 ブラッド・デイヴィス以外の俳優では、ヒッピー風のマックスを演じたイギリス人のジョン・ハートが、知性的な演技を見せました。この映画でゴールデングローブ助演男優賞、英国アカデミー助演男優賞を受賞、『エイリアン』(1979年/監督:リドリー・スコット)では、最初にエイリアンの犠牲になったケインを演じています。こういう渋い俳優が脇を固めると、映画に重心が座ったような安定感が出ます。
 ジョルジオ・モルダーの音楽も強い印象を残します。最近の映画の傾向として、場面の解釈を誘導するような出しゃばった音楽が多く、うんざりさせられることがあるのですが、モルダーの音楽はシンセサイザーのシンプルな旋律とリズムの繰り返しで、主人公の絶望感を十分に表現しています。アカデミー作曲賞ゴールデングローブ作曲賞ロサンゼルス映画批評家協会音楽賞を受賞。

 数多くの賞が『ミッドナイト・エクスプレス』に与えられたということは、やはりこの映画が多くの人の心をとらえる力を持っていたことを知らしめるものです。それだけに、事実を歪曲したシナリオが、舞台となった国や民族ばかりか、原作を書いた作者までも傷つけた、という拭い去れない汚点をはらんでいることが惜しまれます。
 一方で、多方面に配慮するあまり、昔々のどこかの国とか、宇宙のとある星との戦いだとか、差しさわりのない架空の世界のおとぎ話映画が盛んに作られる、という現状もあります。『ミッドナイト・エクスプレス』を見て、現在の映画作りの抱える課題を考えてみる、というのも一つの観賞方法ではないでしょうか。

(注)Midnight Express (1978) - Trivia - IMDb

 

eigatoneko.com

 

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燃えよドラゴン

ブルース・リーの存在と、中国返還前の香港映画のエネルギーを教えてくれた、記念碑的アクション映画。 

 

  製作:1973年
  製作国:香港、アメリ
  日本公開:1973年
  監督:ロバート・クローズ
  出演:ブルース・リージョン・サクソンジム・ケリー、シー・キエン 他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    悪人ハンの猫
  名前:なし
  色柄:白のペルシャ

◆強く見られたい

 たいていの女性は、駅などで男の人にわざとぶつかられたり、押されたり、意地悪をされたりした経験があると思います。私は小柄なためなおさらチョロく見られるのか、たびたび嫌な目に遭いますが、この国の男性たちの中にジェントルマンという意識が蚊ほどにもない人が多いことを、まことに情けなく思います。もし私が屈強な男性(たとえばオリンピックの空手の形で金メダルを取った喜友名選手のような)だったら、あの人たちは同じことをするのでしょうか。一度ああいうルックスをまとって表に出てみたい。ブルース・リーが強くなったのも、そもそもは小柄で優しいルックスを甘くみられ、見返してやりたいと思ったからではないかと思うのですが・・・。

◆あらすじ

 中国武術の技と心を極める青年リー(ブルース・リー)は、ある日ハン(シー・キエン)という男が、少林寺拳法の知識と技を自分の野望のために使って少林寺の名を汚したと聞く。一方、香港政府筋のブレイスウェイトは、ハンが自分の所有する島で女性を麻薬中毒にして世界に売りさばいているという情報を入手、リーにハンが主催する武術トーナメント大会に出場して、その証拠を握るよう依頼する。リーは、死んだ妹がハンの手下のオハラ(ロバート・ウォール)という男に暴行されそうになり、自ら死を選んだと聞かされ、ハン一味への復讐に燃えて島へ出発する。リーと同じ船には、武術大会に出場するアメリカ人のローパー(ジョン・サクソン)とウィリアムズ(ジム・ケリー)も乗っていた。
 まるごと武術道場のようなハンの島に到着したリーは、先に島に潜入していたメイ・リンという女性諜報員と協力して情報収集を開始する。島内を探っていたリーは、彼を見とがめた警備の男たちを叩きのめす。
 翌日の試合で、リーは妹の仇・オハラと対決、オハラを亡き者にしてしまう。用心棒のオハラを殺され、ハンは顔色を変える。ハンは、昨夜島内を探っていたのはウィリアムズと決めつけ、ウィリアムズを残忍な方法で殺害、ローパーが借金まみれなのに目を付け、手下になるよう脅迫する。一方、リーがハンの島の様子をブレイスウェイトに無線で報告しようとすると警報機が鳴り、次々と襲い掛かるハンの手下を撃退したものの、リーはハンに捕えられてしまう。
 翌朝、ハンは試合場でリーとローパーを戦わせ、ローパーにリーを始末させようと仕向けるが、ローパーがそれを拒否。ハンは代わりに野獣のようなボーローをローパーと組ませる。しかし命を落としたのはボーローだった。それを見たハンは何百人といる手下たちにリーとローパーを襲わせる。その間に、メイ・リンが地下に監禁されていた男たちを助け出し、男たちも乱入、島じゅう大乱闘になる。手下たちを次々と倒したリーは、ついにハンと一騎打ちになるが、ハンもリーに勝るとも劣らぬ武術の達人だった・・・。

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◆非情になれるか

 この映画に登場するのは、真っ白なペルシャ猫。映画の中盤、悪人のハンがローパーを自分の拷問道具のコレクションの博物館に案内する場面で登場します。
 悪のボスと猫の取り合わせと言えば、「007シリーズ」のブロフェルド、『ゴッドファーザー』(1972年/監督:フランシス・フォード・コッポラ)のドン・コルレオーネなどが思い浮かびます。人を殺すことを何とも思っていないようなボスが、猫を悠然となでてかわいがるさまは、心の中にある優しさを封印した男の孤独を表しているように思えます。が、このハンにはそういう心のひだは感じられません。
 ハンは、ローパーが非情になれる人間かどうかを試そうと、抱いていた猫をミニチュアのギロチンにセットします。ローパーはギロチンから猫を抱き上げ、「長生きしろよ」と放します。ハンは、さらに、麻薬の製造や人身売買の舞台裏をローパーに見せ、自分の手下としてアメリ支部を任せたい、と誘いをかけます。
 ローパーはハンの野望とそれを断ったときの自分の運命をウィリアムズの死体を見て理解するのですが、この島で行っている悪事のすべてを見せてしまったのに、ハンはローパーを逃げないように捕らえたりしません。一方、ハンの悪事の証拠をコソコソ探っていたリーの方は、ローパーの半分も実態をつかんでいないと思うのに、捕えられてしまいます。この二人への対応の違いはどんな理由によるものか説明がつきませんが、とにもかくにも、猫がギロチンにかけられなくてよかったよかった、といたしましょう。
 けれどもこの猫、長毛種なのに、ブラシをかけてもらったような様子がなく毛がボサボサ。ギロチンにセットされたときに少し首を上げるのですが、あごの下がさっきまでお皿のミルクをなめていたかのように濡れていて、せっかくの映画出演なのに身だしなみも整えてもらえず、かわいそうです。ローパーが抱き上げたとき、痛かったのかフギャーというし、ギロチンも首を上から押さえる板がなく、ローパーが抱き上げなくても猫の意思でいつでも逃げられるようになっていて、緊迫感どころかぞんざい感がいっぱいです。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

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◆衝撃の日本デビュー

 『燃えよドラゴン』が公開されたときの衝撃はものすごいものでした。それまでのアクション映画というと、007や、クリント・イーストウッドのガンマンや、スティーヴ・マックイーンなどのマッチョな男が武器を持って戦ったり、お色気シーンもあり、という大人向けのものだったのが、東洋人の小さい男が、正義のために素手で悪を叩き伏せるという設定。あっという間に青少年が夢中になりました。アチョーという怪鳥音、カンフー(功夫)、ヌンチャク、それまでなじみのなかった世界に触れ、男の子たちが真似するは真似するは。みんなが一番夢中になったのがヌンチャクでしたが、これ、でたらめに振り回したら危険極まりない代物。さっそく学校では「ヌンチャクで遊ぶのは禁止」のお達しが出ましたっけ。
 観客の心を虜にしたのは、ブルース・リーその人自身です。『燃えよドラゴン』公開時、すでに32歳で亡くなっていたため、たちまち神話的存在になりました。義憤に燃えた厳しいまなざし、相手を倒したときの人間離れした悲しげな雄叫び、超絶的な武術の技と鋼のように鍛えられた肉体、ドラゴンとして戦う時以外に見せる少年のような優しい笑顔。それまでになかった東洋的ヒーローの誕生です。

 彼が主演した映画はドラゴンシリーズとして次々と公開されましたが、はっきり言って『燃えよドラゴン』はシナリオがお粗末で、ブルース・リーが戦う場面以外は情けない出来栄えです。主演第1作の『ドラゴン危機一発』(1971年/監督:ロー・ウェイ)(注:「危機一髪」と書くのが正しいのですが、映画のタイトルは「一発」と表記されています)、任侠映画のような『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年/監督:ロー・ウェイ)、『最後のブルース・リー ドラゴンへの道』(1972年/監督:ブルース・リー)の方がシナリオもよく、ブルース・リーの技のみどころもふんだんにカメラにおさめられ、映画としての出来はよいと思いますが、その一方で、武術には技ばかりでなく、心を磨く哲学的要素があることをより明確に描いているのが『燃えよドラゴン』です。
 それを象徴するシーンが、クライマックスの鏡の間でのハンとの一騎打ち。たくさんの鏡に複数の像が映り、どれが本当のハンなのか、リーは迷います。少林寺の師の、「敵は見せかけの像の姿で現れる」「像を打ち壊せ。敵は倒れる」という教えがリーの頭に浮かびます。本物のハンを見抜き、相手を倒すには、力ではなく、五感のすべてを研ぎ澄ませなければならないのです。

(注:『ブルース・リー 死亡遊戯』(1978年/監督:ロバート・クローズ)は、ブルース・リーの急死により代役を使って完成)

◆特別寄稿「ブルース・リーの映画テクニック」

 今回、『燃えよドラゴン』を取り上げるにあたって、イラスト担当の茜丸氏がかつて古武道など格闘技をやっていたことがあるというので色々質問したのですが、茜丸氏が自分に書かせてくれと言うので、特別に今回は、簡潔に書くようにと釘を刺して、茜丸氏に技術解説をしていただきました。以下、どうぞよろしくお願いします。

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 「わたし茜丸は、かつて武道をかじった時期がありました。この映画でのブルース・リーのアクションにはひどく魅せられたことは言うまでもありません。ただし、早速道場での稽古の時に彼の構えを実践してみると、彼の動きは派手で見栄えのいい映画用のフィクションであることをすぐに実感することとなりました。
 武術の心得のある方なら誰でもご存知のように、一見地味で見えない動きこそが最も有効な技と言えるのです。華麗で見栄えのいい大げさな動きは、どんな武術でも戒められているはずです。
 まず、ブルース・リーの構えから見てみましょう。彼の構えは、右手・右足を前に出した完全な半身の構え。これではカニのように横の動きしか出来にくい。相手からは遠く、自分からは近い、という高度な足さばきは、この形からは無理がありすぎます。
 ただ、この構えはみぞおちや心臓が相手の正面に向かないので、心理的に楽という長所はあります。相手の中段前蹴りなどは腰骨でカバーできそうな気さえしたものでした。
 では、その華麗なる蹴りはどうでしょう。彼の構えでは後ろにある左足が基点(軸)となるために、そのまま右足での蹴りは相手に届きません。ただ右足が上がるだけです。相手に届く右蹴りを出すためには、一度後ろにある左足を右足の所へ送ってから蹴らなくてはならず、一動作余分になってしまいます。
動作が余分にかかるということは、一瞬の遅れが生死を分ける武術として致命的な欠陥で、多少でも武術の心得のある者にはまずヒットしません。映画冒頭でブルース・リーの若い弟子が、同じ動作で蹴りを放っていますね。
 逆に、前に出ている右足を基点として、後ろに引いた左足で蹴るとしましょう。これなら開いた歩幅の分だけ遠く蹴ることが出来ます。しかし、完全な半身となっているために、前方向に右足先と身体を戻すという一動作が増えてしまって、これまた相手には次の動きを察知されてしまうことになります。
 映画の中での彼の主要な技のほとんどが、自分の位置からは動いていなく、相手がかかってくるのを蹴り倒しています。その辺の映像は、とても上手く撮られていて観客には不自然には見えません。
 ブルース・リーは、中国武術(カンフー)以外の武術も研鑽し、「ジークンドー」という独自の流派も立ち上げているくらいなので、一流のレベルには違いないように思えます。ですから、試合の際には映画とはまったく別な技を使ったのではないでしょうか。そういうわけで、彼は見かけ倒しで本当は弱かった、などと言っているわけではありません。念のため。」

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 いかがでしたでしょうか。
 つまり、『燃えよドラゴン』でのブルース・リーのアクションは、映画としてカメラ映りがいいように工夫された動作で、本来の武術としての有効な技とは異なるものだ、ということでしょう。はあ、奥深い。

 香港映画は、ブルースリーが先鞭をつけ、ジャッキー・チェンなどが続いたアクション路線でのハリウッド進出、中国への映画人の流出などで現在は空洞化しているようです。中国返還後の香港自体の行方と、かつての映画にも見られた民衆のパワーがどうなるのか、気になるところです。

 

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吸血鬼ノスフェラトゥ

99年前に作られた、モノクロ・無声のもっとも初期の吸血鬼映画。こんな映画があったのか!

 

  製作:1922年
  製作国:ドイツ
  日本公開:未公開
  監督:F・W・ムルナウ(フリードリッヒ・ウィルヘルム・ムルナウ
  出演:マックス・シュレック、アレクサンダー・グラナッハ、
     グスタフ・フォン・ワンゲンハイム、グレタ・シュレーダー 他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    主人公の妻ニーナのペット
  名前:なし
  色柄:キジトラ(モノクロのため推定)

◆ゾンビ以前

 人間の姿に近いモンスターと言えば、いまは真っ先にゾンビが挙げられると思いますが、昭和の頃の洋物系ホラー映画の2大スターは、吸血鬼ドラキュラとフランケンシュタインの怪物。
 フランケンシュタインの怪物は、1818年にイギリスの作家メアリ・シェリーが発表した小説『フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス』に描かれたキャラクターで、完全にメアリの創作です。原作には醜悪な怪物と記されているだけですが、1931年の映画『フランケンシュタイン』(監督:ジェームズ・ホエール)でボリス・カーロフが演じた、首にボルトが刺さって顔に縫いあとのある怪物の姿が定着しています。「フランケンシュタイン」は怪物の名前と誤解されているようですが、怪物を作った科学者の名前です。
 吸血鬼の方は、ヨーロッパを始め世界各地に民間伝承があり、その姿や行動様式は一様ではないはずです。にもかかわらず、吸血鬼と言うと、髪をテカテカのオールバックになでつけ、牙があり、黒いマントをまとっている姿を(ある年代以上の人は)思い浮かべるかと思いますが、これは、1931年の映画『魔人ドラキュラ』(監督:トッド・ブラウニング)で、ベラ・ルゴシが演じた姿がもとになって定着したものだそうです。この幻想的な美男子の姿は、女性が生き血を吸われる場面のエロティシズムを盛り上げるのに大いに効果を上げています。
 それにしても、怪物のビジュアルについての映画の影響力はすごいものです。

◆あらすじ

1838年ブレーメンに起こった事件を、歴史家が記した日記から、という設定で物語が始まる。
 不動産屋のレンフィールド(アレクサンダー・グラナッハ)という老人の下で働くジョナサン(グスタフ・フォン・ワンゲンハイム)は、レンフィールドから、ドラキュラ伯爵がこの町で家を欲しがっているので、ジョナサンの家の向かいの家を売るようにと指示を受ける。伯爵の住むトランシルヴァニアは化け物が出るという噂の地。伯爵の城へ向かうジョナサンを妻のニーナ(グレタ・シュレーダー)は心配そうに見送る。途中、ジョナサンは泊まった宿屋で『吸血鬼の書』という備え付けの本を手に取り、「ノスフェラトゥ(不死身の者)」についての警告が書かれているページを目にする。
 翌朝、城の手前で馬車から降ろされてしまったジョナサンを薄気味の悪い伯爵(マックス・シュレック)が自分で馬車を駆って迎えに来る。城には伯爵以外誰もいない。食事中、パン切ナイフで手を切ると、伯爵が血を見て興奮し、思わずジョナサンは後ずさりする。
 翌朝、のどに噛み傷があるのにジョナサンは気づく。宿から持ってきた『吸血鬼の書』を開くと、吸血鬼に血を吸われた者は喉の噛みあとによってそれに気づく、と書いてあった。その晩、ジョナサンの部屋に伯爵が忍び込む。妻のニーナはテレパシーのようにそれを感知し、ジョナサンに危険が迫っていることを遠くブレーメンから呼びかける。
 翌朝、ジョナサンは、伯爵が棺で眠っているのを見つけ、彼が吸血鬼だと確信する。ジョナサンは、伯爵が馬車にいくつかの棺を載せて、その一つの中に自分で入って運ばれて行くのを目撃。吸血鬼の伯爵は、棺に入ったまま船に積み込まれてブレーメンに向かう。
 ジョナサンは城を脱出し、ニーナのもとにたどり着く。その頃、船もブレーメンに着く。吸血鬼の運んだ棺の中に潜んでいたネズミによって、ブレーメンの町にペストがはびこる。吸血鬼はジョナサンたちの向かいの家にやってくる。
 ニーナはジョナサンの持っていた『吸血鬼の書』を読み、自分の姿を覗き見している向かいの家の男が吸血鬼だということを悟る。その書には、「心に汚れなき女性がノスフェラトゥに自らの血を惜しみなく与える」という吸血鬼の退治法が書いてあった・・・。

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◆瞬猫登場

 「この映画、猫が出てます」初のサイレント映画、そして初の瞬猫(しゅんねこ)映画です。映画が始まってすぐ、ジョナサンとニーナがブレーメンで平穏に過ごしているシーンで、ニーナが窓辺で猫をじゃらしています。猫の登場時間はこのわずか6秒ほど。6秒もあれば瞬猫としては長い方ではないでしょうか。ホラー映画とかサスペンスでは、猫は何か不吉なことが起きる前触れのように登場することがよくありますが、この映画では平和な日常の描写に使われています。
 何度も同じことを申しておりますが、このブログは「猫が出てくる」ことを条件に選んだ映画について書くものなので、これはと思う映画に猫がチラッとでも登場すると、しめた、と思います。『吸血鬼ノスフェラトゥ』も猫が出ていたかどうかチェックしていなくて、たまたま久しぶりに見たときにこのシーンを見つけ、大喜びしました。とは言え、いままで見たことはあるけれど、猫の出番の有無をメモしていなかった映画をもう一度全部見直すかどうかは未定ですが…。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

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◆カツベン!

 私が初めてこの映画を見たときは、活動弁士澤登翠(さわとみどり)さんの口上つき。無声映画で弁士がついたのは、日本と、かつて日本の統治を受けた朝鮮、台湾、それ以外ではタイだけだそうです。欧米では内容の説明者が出てくることが一時期あったものの(観客同士が「今のどういうこと?」などとしゃべり合ってうるさくならないように?)、映画の表現技法が発達するにつれ、姿を消したということ。日本には、講談などの話芸や義太夫などの伝統により、物語を語り聞かせる弁士が活躍できる土壌があったのでしょう。一時は弁士の人気が映画館の客入りを左右したとか。弁士はトーキー映画の出現により、1930年代には消えていきます(注1)。

◆饒舌な映像

 私の手元にあるのは、アメリカ版のDVDですが、ストーリーは、頻繁に入る字幕のショットと『吸血鬼の書』の記述によって進行します。伯爵のいる城になぜジョナサンが行くのか、吸血鬼とはどんな性質を持つのか、などは視覚的な演技だけでは伝えられない内容です。が、感情表出とか、特に印象付けたい出来事などは、オーバーなパントマイム的な演技で、外国映画という言葉の障壁を越えて十分伝わるのがサイレントの妙味です。
 一目見たら忘れられない吸血鬼ノスフェラトゥ。スキンヘッドにギョロ目、鷲鼻、とんがった耳、長く伸びた爪、ハンガーにかけて吊るされた服のように固まっているのは、一度死んだ者であるというしるしの、死後硬直を表しているのでしょうか。
 ちょっと笑ってしまうのは、ブレーメンに着いてから、自分が入っていた棺を抱えて自分の買った家に向かうところです。人に見られたら100%怪しい行動ですが、大真面目なだけにおかしい。字幕の説明によると、吸血鬼は魔力を保つために、昼間は自分が葬られていたのと同じ土に埋もれて眠っていなければならないので、土の入った棺を運んでいるのです。けれども、この棺を運んでいるのはどう見ても眠っていなければならないはずの真っ昼間ですし、けがれを知らない女性の生き血を飲ませるより、この棺を奪って始末してしまう方が簡単に吸血鬼を退治できると思うのですが、そこはまあ、目をつぶることにして…。

◆弁士以外に消えた者

 ジョナサンの妻・ニーナを演じたグレタ・シュレーダー、この『吸血鬼ノスフェラトゥ』以外にはほとんど知られていないようで、ちょっとごつくて顔が大きく、何度か男の人が演じているのかと思ってしまいました。
 日本映画では、女性を女形が演じていたことがありました。初期の日本映画は、歌舞伎の演目をそのまま映画化したものもあり、歌舞伎とは切っても切れない関係で、俳優も歌舞伎役者が多く、女形が女優の役割を演じるのは自然な流れでした。映画監督の衣笠貞之助も、女形として映画に出演していた時期がありました。また、新派(歌舞伎の「旧」に対する「新」の意)の現代劇でも、女形が活躍していた時期があったのですが、演劇界のリアリズムの追求、洋装の演劇では女形を隠しようがない、などの理由から女優の活躍の場が広がり、大正後期の1920年代頃から女形は日本映画の中から姿を消していきます。

◆よみがえったフィルム

 この映画の原作は1897年にアイルランドのブラム・ストーカーによって発表された『吸血鬼ドラキュラ』ですが、映画化の権利を取得しないまま製作され、ブラム・ストーカーの未亡人が訴えて勝訴、ネガやプリントもすべて廃棄されたことになっていたのですが、秘かに隠されていたプリントが世に出てきたそうです。具体的なデータが伏せられたのか、いつということなくじわじわと表に出てきたのか、それは1960年代から70年代初め頃だったようです。吸血鬼のように地下に眠っていたものがよみがえるとは、不思議な因縁です。
 光と影のコントラスト、不気味な登場人物、不安と恐怖をかきたてる情景描写、顔のアップ、不穏な空間。監督のF・W・ムルナウは、ロベルト・ヴィーネ監督の『カリガリ博士』(1919年)などとともに、ドイツ表現主義の代表的な作品としてこの映画を残しました。そこに表現された超現実的な感覚は、映像の持つ可能性を大きく開くものだったと言えます。さきほど女形だったと紹介した衣笠貞之助監督も、これらの作品に影響を受けたと言われる『狂った一頁』(1926年)、『十字路』(1928年)を残しています。
 『カリガリ博士』には、実験的な映像に挑戦しているという硬さを感じるのに対し、『吸血鬼ノスフェラトゥ』には、楽しんで作っているような自由さを感じます。
 私の持っているDVDで見る限り、プリントは汚れや傷だらけで、もともと狙った効果なのかプリントの問題なのかわからない不鮮明なショットもありますが、それがかえって不気味さを増幅しています。これをデジタル修復してきれいにしてしまったら怖さが半減してしまうのではないでしょうか。

◆ホラーは語る

 前回の『怪談佐賀屋敷』で、日本の怪談ものは恨みの感情をモチーフにしている、と言いましたが、『吸血鬼ノスフェラトゥ』はどうでしょうか。欧米の怪奇もののモチーフになっているのは、キリスト教の神に対する「悪魔」の存在だと思います。キリスト教社会では、人間を無差別に襲う超自然的な力への恐怖が、魔物の姿で表現されるのではないでしょうか。吸血鬼は生まれながらに吸血鬼。個人的な感情とは全く関係なく、自分が吸血鬼として存在し続けるために何の落ち度もない人を襲います。言うなれば日本の怪談ものは個人の行いが招く仏教的な因果応報の恐怖、キリスト教文化の欧米系はその社会全体を脅かす異質で理解を超えた侵略者への恐怖を描いてきたように思います。
 ノスフェラトゥの姿には、風刺画などに描かれるユダヤ人の特徴が見えると言われています。また、ノスフェラトゥが船でネズミを運び、ペストを流行させますが、中世ではユダヤ人が毒をばらまいてペストをはやらせたといううわさが流布し、多くのユダヤ人が虐殺されたそうです。それらのことから、この映画のユニークなノスフェラトゥ像は、ユダヤ人への差別的な見方から生み出されたとされる一方、ムルナウが意図的に演出したものではないとする説もあるようです(注2)。

 先ほどの棺のように、どこかしらスキがあるのが昔のホラーの面白いところ。ジョナサンが宿屋に泊まって表を眺めたときに、シマハイエナの映像が映ります。「なぜトランシルヴァニアにハイエナが?」と思ったら、これは日が暮れるとこの近辺に出没する魔物、werewolf(人狼)を表しているようなのですが…(注3)。


(注1)参考:『映画館と観客の文化史』(加藤幹郎著/2006年/中公新書
(注2)吸血鬼ノスフェラトゥ - Wikipedia
(注3)Nosferatu (1922) - Trivia - IMDb

 

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